アカゴン
衝撃から立て直し、見つめるアントの眼前に現れたるは二足歩行に到達する以前、未だ野生の本能を色濃く残すホモサピエンスの最小幼生体である、ほとばしる野生、溢れ出る獣性。その相貌に浮かぶのは幼さゆえの残虐さだ。いくら肉体としての完成度は成体に遠く及ばなくとも、そんなものを意に介さない圧倒的なウエイト差、推定体重五千グラムとするのならば、アントの体重五ミリグラム、比較するのもおこがましい質量の暴力の前に、多少の不完全さなぞ、無に帰する。絶体絶命五里霧中!
その時アントは……。
喜色満面、ガチッと不敵に大顎鳴らす!
ああ、ああ、確かにピンチだ。次の瞬間に死んでもおかしくない。しかし、長年(一年)生き抜いたアント界、この程度のピンチは日常よ! 俺なら必ず切り抜けられる! 焦るな、慌てるな、乱れるな。アントがこの状況を脱する武器はたった三つしかないのだから!
まず第一に状況を理解し思考しろ、そこがすべての始まりだ。眼前の敵を認識し、理解しろ。脅威度は最大、一撃が外れてもなお、アントへの興味を失っておらず、再度アントを捕獲せんと、致死の二撃目に移行していると推定される。状況は把握した、ならば次だ、勝利条件を設定しよう。アントの肉体構造では対象の無力化は困難、対象の圧倒的物量を前にアントの力は及ばない。故に勝利条件はただ一つ、いかに無傷で逃げ切るかだ!
勝負は一瞬刹那である、背を向け逃走するのは愚の骨頂。あまりに違いすぎるリーチ差で、あっという間に詰められ、潰される。ならば死中に活を狙うのみ、攻撃の隙、起死回生の瞬間を! 可能な限り全方位、瞬時に動けるように身構える!
「だ~!」
人語でさえない、奇声を発しながら、振り下ろされる巨碗は暴力の化身、たとえこの場に数千のアントが味方していようとも、まともに喰らえばひとたまりもないだろう。だがその動きはあまりに鈍重、不完全な神経伝達回路と筋組織、そこにアントの勝機がある!
対象は四足歩行、前足と化した片腕を振りかぶる。ただそれだけの動作で暴風が巻き起こり、アントの触覚を揺さぶっていく。次の一瞬で振り下ろされるであろう一撃、その破壊力にさしものアントも恐怖する……!
「あ~!」
満面の笑みを携えて、四足歩行型ホモサピエンス、残虐性と無邪気さを同時に発露し、蹂躙する。眼前にある尊いアントの命を歯牙にもかけない。命を尊いという概念を理解するには幼すぎる。……だからアントは許すよ、キミのこと。アントの体は小さくとも、心は海より大きいのだから!
……まぁ、どうせ俺は死なないしね、大人のアントの余裕だよ。うんうん、よく見ると可愛い顔してるよ、このヒューマン。老獪なロンリーアントの真髄を教えてあげるよ!
そして、時が止まる。より厳密に述べるなら、止まったかのようにゆるやかに。そう、これがアントとヒューマンの決定的な種族の壁だ! さあ、ここで一つ問いかけよう。何故ヒューマンは昆虫を簡単に捉えることが出来ないのかと。空を立体的に飛び回るから? 違う。単純に素早いから? いや、違う。すべての答えは瞳にある! 数百にも及ぶ複眼よりなされる動体視力、たとえ弾丸であろうとも、一切合切捉えきる!
アントのものはハエに比べれば幾分劣る。しかし、ヒューマンの動作を見切る程度は造作もない。振り下ろされる腕から着地点を予測し、先手を打つ! 残る武器はあと一つ。最後にして最大の、アントにとっての一番の武器だ!
複眼より受け取った視覚情報を生体電流にのせ、身体に分布する三つの脳へ伝達し、勝利条件を達成する最適解を叩き出し、アントの全身を駆動する。ヒューマンが知覚し、認識するよりもなお早く、アントの体は動き出す!
極小であるがゆえの利、小さいがゆえの奇跡、生体電流の速度はアントもホモ・サピエンスも変わらない。ならば当然小さいほうが『速い』んだ!
アントの全身に命令を送るプロセスは最小、ヒューマンの一手を最大とするならば、腕を振り下ろし終わるまでに、アントがいくつ考えて、アントが何回動けると思う? そこが勝機、刹那を読みきり打ち勝つのだ! ……ちなみにアントは教育テレビでこれを知ったよ。見ててよかったN○K! 知識はやっぱり武器だよね。ほめてほめて、すごいでしょう!
ドゴォッと、地面に巨碗はたたきつけられ、アントの触覚はガンガンギンギンと、響く響く。しかしアントは勝ち取った、生存という結果を勝ち取った! 躱してしまえばこっちのものよ。瞬時に腕に飛び乗って、己が最速で駆け上る。目指す目指す、ホモサピエンスの背中へと!
鈍重な動作では駆け上がるアントを捉えようにも捕まえられず、無事に肩を通りぬけ背面へ。アントを探して首を左右前後に動かす振動が、六本足を通じて伝わってくる。やーいやーい、ばっかでぇ、鬼さんこちら、顎なる方へ~。ガッチガチと大顎鳴らし、悠々自適に進んでく。
そのまま背中からズボンに移動し、大脱出。未だアントを探しまわる、ホモサピエンスを置き去りに。チビヒューマンのバラ組へ、まっすぐ突撃侵入成功! 自然界の勝利とは敵を倒すことにあらず。いかに無傷で生き残り、面白おかしく生きるかだ!