泡の味
辛い恋してたって、綺麗になれるわけないじゃない。最近すごく疲れた顔してるよ。
そう言ったのは沙紀だ。
私の彼は、半年前にたまたま沙紀と入ったバーで知り合った男性。個人的に連絡が来て、二人で会うようになるまで時間はかからなかった。
5歳年上の彼の第一印象は、生活感のない人。その理由はなんとなく気付いていたけど、わからないふりをしていたのかも知れない。
彼には、奥さんがいた。
初めてそれを告白された時、私は動揺しなかった。やっぱりね。知ってたよ。
それからは自分に言い訳の毎日。
彼の奥さんは、私と同じ28歳。だから、奥さんより若い女と遊びたくて私を口説いたわけじゃない。
会うときは平日、仕事が終わってからの数時間。休みの日に会うことなんてないから、きっと迷惑にならない。
「結婚したいの?奥さんがいるのに、ほかの女に手出すような男だよ。」
…ううん、違う。
それは充分すぎるくらいわかってるつもり。結婚しても彼は私だけのものになんてならない。きっと他の女性に目がいって、巧みに裏切りを隠す。私とそうしているように。
惨めな“奥さん”にはなりたくなかった。彼のシャツやハンカチはいつも綺麗にアイロンがかけられているけど、私はそれをする役にはなりたくない。
いつも、知りたくないくせに質問する。
奥さんとはどこで知り合ったの?どこが好きなの?家でキスはするの?休みの日はどこかへ行くの?
彼はあまり話したくなさそうに、ただの同居人みたいなもんだって答え、それに私は満足する。
「まさか、子どもがいないから良いと思ってないよね?家庭を壊してることに変わりはないんだよ。」
どきん、とした。
確かに彼に子どもがいない事は、罪の意識を軽くさせていた。
ふぅっと溜息を吐いた後、沙紀はさほど興味もなさそうな顔で聞く。
「あの男の、どこが好きなの?」
彼の好きなところは挙げれば沢山ある。
触ると柔らかい髪の毛。涙袋の小さなほくろ。
くちびる。少し低い声。お臍の形。
並べてみると、外見ばっかりで可笑しくなる。もちろん性格も好き。だけど彼の性格なんて私はきっと一部しか知らないから、まるで芸能人に憧れたりアイドルに恋するみたいに彼の甘いところだけをつまみ食いする。
沙紀は、私を心配したり馬鹿だって呆れたり忙しい。
「不倫なんてさ、消耗するだけでしょ。やめるきっかけがないなら他の男紹介するよ。」
不倫。なんだか私とは別世界の言葉に聞こえる。
今の恋が辛くないわけじゃないけど、やめたいと思った事はない。続けたいと思った事も、ない。
眠っている彼の携帯電話を手に取ったのは、ほんの出来心だった。
中を見たって絶対良いことなんてないのは分かりきっているし、今まで見たいと思ったこともなかったのに。たまたま彼の眠りが深くて、たまたま私の手の届くところにあったから。
メールの送信ボックスを確認すると、同じ名前が沢山並んだ。
最新の履歴をひらく。
『帰ったらマッサージしてもらおかな(^o^)/』
送信時間は、二時間前。ちょうど私との食事を終えた頃だ。
何だかんだ言ってもうまくいってるじゃない、同居人と。しかも、何あの顔文字。ハートマークのが全然良かった。
なぜだか笑いが込み上げてきて、ベッドを揺らさないようにするのが大変だった。
この人は今日、帰ったらマッサージをしてもらう。奥さんは彼の身体からする匂いに気付かないふりをして、休みの日には一緒にスーパーへ行き、お米やサラダ油やトイレットペーパーを買うのだろう。
急に、彼が知らない人に見えた。
…起きて。もう帰るから。タクシー代ちょうだい。
目的も希望もない恋は、終わった。
一瞬であっけなく。
私の親友は、また呆れた顔をするだろうか。
終
===あとがき===
『泡の味』を読んでいただき、ありがとうございました。
どんなに夢中になった恋でも冷めてしまったら急降下…。
そのスイッチは、自分でもわかりません。