あの日あった日あり得る日
「次、何の授業だっけ?」
……肩こりがやばい。昨日ずっとヘンな体制でゲームしてたのがダメだったか、コンクリートのように硬い。それだけならまだ良いのだが、プラス地味にキツい痛み。麻酔打ちたい。イライラで気がおかしくなりそうだ。グルグルと肩を回して、少しでも良くなるようにと揉んでみる。
「えっと、次は体育館で『剣術』ですね」
「あー……肩痛い時に限って体育系授業かあ……」
ダルさと共に欠伸が口から漏れる。剣術は嫌いじゃないけど、今はそんな気分じゃない。どっちかっていうと、理科とか社会とかで座って眠れる授業が良い。国語だと音読の時に当てられたらマズいし、数学だと先生がめっちゃ怖い。まあどの教科でも寝たのがバレると怒られて居残り掃除ってのはかわらないけど、とにかく今は身体を休めたい。
「まあ、少し体を動かして血流を良くしましょう」
「そうだねぇ……」
サボっちゃおうかなあ、とも考えたけど、サボると三日間放課後にみっちりと生徒指導が入って先生からぐちぐちと怒られるので、私は考えるのを止めた。諦めて大人しく授業を受けよう。
私は窓からよく晴れた空を見ながら、体操着を持って更衣室へと向かった。
私がここに来たのは一年くらい前。
その時流行っていた感染病で母さんは死んで、私は一人になった。
感染病は、ちょっと前に『二年に一回年を取る』ことが出来るようになったのが原因で、その二年に一回年を取る体にするには病院に行って、注射で新しく発見された細胞が入った液体のようなものを体内に取り込んで、血液に通して体に馴染ませるために二日間待たなければならない。私もお母さんもその当時スゴイねーって言いながら、注射が出来るようになった初日に注射をしてもらって、「あと二日間で年齢詐欺も出来ちゃうねー」なんて笑ってた。
そして買い物をしてから家に帰って、二日間の期間中のある時、
お母さんが倒れた。
お医者さんから聞いてはいたが、たまに『アレルギー反応』が出る人がいて、最悪死に至る場合があるらしい。
そこまでは良かったのだが、打ってもらった細胞が思った以上の速さで突然変異し、かかったら即死+近くの者を喰らう狼のようにすぐ感染していくという超危険な疫病となった。しかも当時は、どんな症状が出るのかが詳しく発表されなかったため、世界中の混乱を招いた。
注射可能となって初日に打った人は、日本で約四十二万人。そのうちアレルギー反応が出た人はお母さんを含めて約一万三千人。これでも充分過ぎるくらいだが、さらにこれが世界で同じ日に開始されているので、総合でアレルギー反応が出た人は膨大な数となった。
そして結果、約二億三千万人もの人々が亡くなった。
その中に、お母さんも含まれている。
でも、お母さんは注射のせいで死んだんじゃない。
注射を打って倒れて、疫病が広まる原因として危険な対象だったから射殺されたのだ。
勿論私は抗ったけど、ダメだった。
お母さんの兄弟姉妹や親戚はいなかったか遠すぎたかで、私は誰かに引きとられることなく暫く病院で過ごした。
お母さんを奪い返すために、折った左腕。
結局無駄だった。
今はもう怪我痕一つなく回復したが、あの日のことを忘れた日はない。私の心に深く、母さんに突き刺さった矢の如く、傷ついている。
母さんを亡くし、生きる希望をなくして、ご飯食べて病院のカウンセリングを受けて寝て、そんな流しては巻き戻しの日々を繰り返して、飽きてきた頃のこと。
いつも通り病院のベッドで寝ていると、遠くから看護師さんの悲鳴が聞こえた。その後すぐにドンッと鈍い音。地面が少し揺れた。そしてゴトゴトと重そうな靴で歩く音。--こっちに近づいてきてる。
足音は私のすぐ近くで止まり、いきなり私の病室のドアが勢いよくガラララッと開いた。その衝撃で私の名前の『伊荊 凛華』と書かれたプレートが外れ、地面に落ちた。
そこに立っていたのは、母さんを銃で殺した--写真で見たことがある人。
「さあ、帰るぞ」
その一言を吐き捨て、私の首を鷲掴みして引っ張った。痛みがズキリと走って、うめき声が漏れる。
息が出来ない。
「お前はッ……誰だ」
苦しみながらも、私は相手に名前を問う。
「お前の父親だよ。行方不明だった、ね」
父親。私の家にはいつもお母さんしかいなかった。「お父さんは?」とお母さんに聞くと、悲しそうな目をしながら「んー……お仕事、なのかなあ」と決まった答えがいつも返ってきた。それ以上は私も聞かなかったけど、行方不明だとは知らなかった。
反射というか敵とみなしたというか、その時の私は自分以外信頼できなかったので、私の首を掴んでる手を思いっきり引っ張って、あの日のように噛んだ。
--千切ってやる。
でもその人はうめき声一つ漏らさず、ただただ私を見つめるだけだった。
「生憎自分は無痛症ってやつでね。痛みを感じないんだ」
無痛症。その言葉を言われた直後は「は?」としか思わなかったが、その後調べてみるととんでもないモノということがわかった。
痛みを感じないってのは、痛みを感じる私達からしたら、羨ましいとか素晴らしいっていう良いイメージがあるかもしれないけれど、まず『自分の身体が傷つく』ということが理解出来ない。いつの間にか骨折、いつの間にか重い病なんてよくあることらしい。そして、『防御が出来ない』。痛くないから、痛みを感じてないから、攻撃されても防御しない。攻撃するのが他人であっても、自分であっても。
痛みというのは危険の合図なので、それがなくなると歯止めが効かなくなる。
私の父親だと言う人はその歯止めが効かなくなって、昔はヤクザやっててやんちゃしたよ、と今では笑い話だが、右足に残ってる傷痕からすると、笑えないレベルだった。
ずっと不気味な笑を浮かべる父親は、噛まれている手をぐいっと上に引っ張り、私の上半身を自分側に引き寄せた。
「旧市から離れるぞ」
「キューシ? 意味がわからないんだけど」
噛むのを止め、問いかける。
「ここは、もうお前の知ってる『神奈川』じゃないよ」
「はあ? ……ここは神奈川県藤沢市だけど。ここの病院の住所知ってて言ってる?」
二つ目の問いかけを無視しながら私の荷物を大きな鞄にどんどん詰め込んでいく。上着、お絵描き帳、ペン、下着、写真……。最終的に大きな鞄がパンパンに膨れ上がった。それをよっこらしょと担いで、今度は思いっきり掴まないで、私の右腕を軽く引っ張った。
「『東京』に行くぞ」
手を握られ、すっと体を引っ張られ、そのままの勢いで歩いて病院の廊下を通りすぎて、途中周りの人から変な目で見られたけど、気にすることなくズカズカと歩く父親を名乗る人物とそれに引っ張られる自分。他人からみたら誘拐されているようにしか見えない。私は抵抗するのを諦め、駆け足で引っ張られないようにして、駐車場まできた。そこには黒く大きな車が一台止まっていた。中からボディガードみたいな人が出てきて、車のドアを開けた。そして父親を名乗る人は荷物をその人に預け、私を見てこう言った。
「乗りなさい」
冷たい声だった。冷たい目だった。口元は笑っているのに、何も感じられなかった。
私は助手席に乗せられ、シートベルトをつけられる。私の家には車がなく、いつも徒歩か自転車かバスで移動していたのでちょっと違和感があった。
運転席にはさっきのボディガードっぽい人。父親という人は後ろの席に乗った。ここでやけにシートの質が良かったり、席が普通の車よりも多かったり、カーナビやエアコンはもちろん、マイクやインターネット環境が整い過ぎてることに気がついた。車に乗ったことがなくても、これが普通じゃないとわかる。
車内の様子に驚く私の目の前に液体の入ったカップが出された。柑橘系の爽やかで酸っぱい匂いが広がった。
「お飲物はオレンジジュースで宜しかったでしょうか?」
隣にいるボディガードっぽい人が聞いてくる。別にオレンジジュースは好きでも嫌いでもないので、こくりと頷いた。受け取って、一口飲む。
思っていたのよりちょっと酸っぱかった。
エンジンをかけて、車は病院から出た。
この病院には何回か来たことがあったけど、改めて外から見ると汚いなあと思う。
なんかされるがまま車に乗ってしまったが、これからどこに行くんだろう。知らない人について行っちゃダメというお決まり文句を無視して、さらに車まで乗り込んでしまった。
「何かご質問などありましたら、お気軽にお申し付け下さい」
真顔で運転しながら隣の人が言う。ロボットみたいだ。
「……じゃあまず、お兄さんは誰?」
「申し遅れました。私、今日から凛華様の教育係を担当させていただきます、水上と申します」
「教育係……? どういうこと?」
「凛華様はこれから京介様の経営される東京の学校に行かれます。そして……」
「ちょっと待って、えっと……水上さん、京介って誰?」
「水上で構いません。京介様とは、」
「私のことだよ、凛華」
後ろに座っていた、父親を名乗る人物が遮って答える。相変わらず不気味に笑っている。
ジャケットの胸ポケットからタバコを一本取り出し、金ピカのライターで火をつける。
「詩屋 京介。詩吟の『詩』に屋台の『屋』だよ。一応、父親の名前だし覚えてね」
タバコを口元に運び、白い煙と嫌な匂いが車内にふわりと広がる。思わず咳き込み、喉を少し痛めた。
車はよく行っていたスーパーの角を右に曲がり、高速道路に出る。
ぐんぐんとスピードが上がり、体感的には時速八十キロぐらいは出てる。
「先程のお話の続きをさせて頂きますと、凛華様は四月六日から中学一年生として学校に通って頂きます。そこで様々なことを学びになられます。学校についての詳しいことは後ほど説明致しますので、もう少しお待ち下さい」
「四月六日……一週間後?」
「そうです」
たんたんと話を進めて行く水上という人。
着いていけない私。
中学生になるというけど、実は私は母さんが死んでから小学校に一度も行けていない。いわゆる、引きこもり。一度も行ってないということは卒業式にも出ていない。つまり、私はまだ小学校を卒業しておらず、小学生のままなのだ。
「今向かっていますのは学校の学生寮です。キッチンや冷蔵庫、ある程度の服と飲み物は揃えておいてありますので、着いたらご確認下さい。部屋番号は『1682』、一緒の部屋に住む生徒は凛華様もご存知の方です。楽しみにしておいて……」
「あの、手続きとか、どうするの」
「何の手続きでございましょう」
渋滞にぶち当たり、車がゆっくりと止まった。水上が顔だけをこちらに向け、私と目が合う。
「私、まだ小学校卒業してないから、中学校に入学できないんだけど」
「ああ、それでしたらこちら側でもう済ませております。心配しないで下さい」
--もう、済ませてある? どういうこと。私はまだ卒業証書も貰ってないのに?
いつの間にやったんだか。
私の友達は? 私の思い出は? 私の……。
「私の住んでた家は? 捨てられるの? 売られるの? ねえどうなの……」
お母さんと一緒に暮らした、唯一私が今守りたいと思える場所。私にとって家自体が思い出で、思い出自体が家なのだ。全てが詰まった家を売られてしまえば、死んだ方がマシかもしれない。
水上の着ているスーツの袖口をぎゅっと掴み、離さない。
しばらくの間を置いてから水上は私の手を払って、その手をシルクの手袋の上からぎゅっと握った。
「落ち着いて下さい。お家は捨てられも売られもしません。そのまま残され、年に一回のみ帰ることが出来ます。掃除などは我々にお伝え頂けましたら致しますのでご安心下さい」
「ほんと?」
「ええ、本当です。私は嘘をつけるほどの立場にいませんので」
水上は、私の目を真っ直ぐ見つめた。夜中の空みたいな、真っ黒の中に光が宿る瞳で私に訴えかけるように言った。あまりにも瞳が綺麗だったので少し見惚れそうになり、騙されるな、落ち着けと自分に言い聞かせるようにブンブンと首を振った。ちょっとほっぺが紅くなったのが悔しい。
「信じて頂けますか?」
彼を見る限り、嘘はついていないと思う。
黒目はずっとこちらを向き、私の手を握っている間も脈拍は変わらない。冷や汗、鼻の動き、口元の歪み、無し。
ちらっと横目で父親の方を見ると、笑顔でこくこくと頷いて答えた。
「……わかった。信じる」
「有難う御座います。追加のお荷物などは後で承りますので」
水上がここで初めて笑顔を見せた。ニコッと、爽やかな笑顔。
惚れたとか、かっこいいという前に、単純に羨ましいと思った。
--私はそんな綺麗な笑顔、出来ないなあ。
ようやく渋滞を抜け、快調に車が動き出す。
空は相変わらずの天気で、もう三時なのに太陽がギラギラと光っている。別に日光が嫌いとか、日焼けしたくないとかじゃないけど、ちょっと眩しいなあって思う。
最近は家とか病院に篭りっぱなしだったから、体のリズムが崩れそうになる。
「もうすぐ、学校街が見えますよ」
「ガッコウガイ? 街なの?」
「見ればわかりますよ」
そういう勿体ぶるの要らないよ、と本音が漏れそうになったけど、ぐっとこらえて我慢。……欠伸は我慢出来なかったけど。悲しくもないのに欠伸をすると涙が出てくるのはなんでだろ。
高速道路を抜け、それでも十分幅広い道路へと出た。
水分補給のために、病院から出る時にもらったオレンジジュースをぐいっと飲み干す。やっぱ酸っぱいなあと思いながら、口元を拭った。
「あ、見えてきましたよ!」
日が暮れ始め、烏が鳴き終わる頃に元気良く言葉を発する水上。童顔だから、はしゃいでいる元気な男の子に見えてくる。
私は窓から顔を出し、正面を見る。遠くに見えてきたのは、大きな山のように店や建物が連なった、円形の城郭がある街が見えてきた。その街の広さと店や建物の密集度に驚いて、思わず「わあ……」と声が漏れるくらいだった。
私なりに例えると、私の知る神奈川県をぎゅっと縮めたスノードームみたいな、全てが揃う大都市。
「ん? 学校っぽいものは見えないけど……」
「いえいえ、あれが学校街ですよ。あそこにある大きな建物が学生寮で、今は見えにくいですが中央部に学校があります。他にも体育館や剣道場や弓道場、芸術館とか巨大図書館もあります。今見えているのもほんの一部です。……学生寮にはあと三十分ほどで到着しますから、もう暫くお待ち下さい」
これでもまだほんの一部……。どれだけ大きいんだ。下手したら一つの『市』ぐらいになるんじゃないだろうか。ここから見る限り、電車やバスもある。郵便局もあるっぽい。銀行も商店街っぽいのもある。
しかもそれを経営しているのが、後ろに座っている私の父親?
「わけわからん……」
今日一日でいろんなことがありすぎて、疲れてきた。
病院で行方不明だった父親と出会い、引き取られ(誘拐され?)、車に乗せられて小学校卒業。中学にも行くことが決定し、しかもそこが父親が経営している馬鹿でかい街にまでなってる学校。……ドラマか。
……しかも私、まだ学校に通うとは言ってないのになあ。
勝手に私の知らないところで話が進んでる。
瞼が重たくなり、欠伸が口から漏れる。一気に身体が鉛のように重くなり、目をゴシゴシとこすると、隣からタオルケットが差し出された。
「着いたら、起こしますので」
私は素直に受け取り、肩から膝が隠れるようにしてタオルケットをかけ、「今日が夢でありますように」と願いを込めて目を閉じた。
*
嗅いだことのない、空気の匂い。
耳元でごにょごにょと聞こえる、まだイマイチ聞き慣れていない声。
そして右肩をポンポンと軽く二回叩かれる。
「……様、凛華様。学生寮に着きましたよ」
「……んぅえ?」
「ですから、学生寮です。起きましょう」
んーっ、と大きく伸びをして、寝る前と同じように目をこすってから周りを見渡した。車の窓の向こう側には、ホテルかよと思わずツッコミたくなるほどのレベルの綺麗さと大きさを兼ね備えた建物があった。自動ドアの入口を入ったすぐには胡蝶蘭が飾られ、奥には受付らしき場所と人がいる。
「ちょっと行ってくるから、二人は車の中で待っててくれ」
後ろのドアから私の父親……学園長なのかな、その人が出て、受付の方に歩いて行った。それに向かって「行ってらっしゃいませ」と水上が言う。行ってらっしゃいませを言う距離じゃあないだろう。
「京介様が戻ってきたらまず最初に、凛華様のお部屋へ向かいます。先程言った通り家具と各部屋の場所、服や飲み物の確認、一緒の部屋で住む方の紹介をします。その後お手洗いなど行く必要がなければ、京介様のお部屋へ向かいます」
「水上さんは一緒に来てくれるの?」
「水上で良いですって。えっと、京介様のお部屋の目の前までは、一緒に行くことも可能ですよ」
「どうなされますか?」と微笑む水上。今更かもだけど、悪い人ではないっぽい。忠誠心溢れる柴犬っていうのが今までの私の中でのイメージだ。
「水上……さんが良いなら来て欲しい」
「水上で良いのに。無理にさん付けしなくても良いですよ」
「いや、年上の人にはさん付けで呼びなさいって……母さんが」
「……そうですか」
--しばらくの沈黙。
「そういえば水上さんの下の名前は何?」
思い切って話を振ってみる。これからよく合う人なら、下の名前くらい知っておかないと。
水上はちょっと照れた顔をした。
「雫です、水上 雫。……昔は佐村 綾だったんですけどね」
「昔は?」
「ええ。恐らく凛華様も……」
水上の話を遮るように、車の窓がコンコンと叩かれた。
「受付済ませたから、早速行こうか」
父親の命令に「了解です」と律儀に答える水上。私が使ったタオルケットを畳み、シートベルトを外して先に外に出て、私側の車のドアを開け、「降りる時に気をつけて下さい」と手を差し伸べる。一つ一つの行動が早い。私は水上の手を取り、よいしょと車を降りた。私がポンポンと服を払っている間に水上は私の荷物が入った鞄を手慣れた手つきで持ち、車の鍵を閉めた。……執事か。
私達は先程車の中から見えた胡蝶蘭のところの右側にあるエレベーターに乗った。地面には赤いカーペットが敷かれ、後ろにはピカピカに磨かれた鏡、上には防犯カメラと花の飾りって寮にしては贅沢すぎじゃないのかと疑問を抱きながら、五十三階に着いた。
ドアが開くとともにふわりと広がる花の香り。香水のように毒々しい臭いではなく、サラリと風に流れてやってくる心地よい匂い。
「『1682』号室はこちらです」
見た目もホテルかよ、と思ったけど中身の方がホテルに近いというか、ホテルだった。各部屋のドアに番号が振り分けられ、鍵はカード式。壁には絵や押し花が額に入れられ飾られている。
そういえば、と思い質問をしてみる。
「ここって性別で寮が別れてるとか、そういうのないんですか?」
女の私にとって、いきなり敬語になるくらいこれは結構重要なポイントだ。まだ未発達な体というのは認めるけれど、だからって見られたりしたらたまったもんじゃない。毎日110番通報なんて危険な寮に住みたくはない。
「そうですね、正確にいうと一階は受付と集会場、下級レベルの人々の中で男は二階から八階、女は十階から十六階、中級レベルの人々の中で男は十八階から二十四階、女は二十六階から……」
「ストップ、長すぎ。手短に」
「階級ごとに階数が別れ、さらにその中でも男女の階数は別れています。また、男女の階数が別れる間の階には、階級または学年ごとの集会場が設けられています。私達がここに来ることは事前に連絡してありますので、通報沙汰にはなりませんよ」
「ん? それだと私は五十三階じゃなくて四十二階から四十八階の間じゃないの? というかまず階級って何?」
ごほん、と後ろから態とらしく咳き込み、アピールをする父親。
いつの間にかタバコが口元からなくなり、三日ほど剃っていない髭が目立つ。
「そこらへんについては後に私が説明しよう。私は先に部屋に戻っているから、残りは水上、頼んだよ」
「了解です」
父親はエレベーターの方へ戻り、ちょっと目を離した隙に姿が見えなくなった。多分エレベーターに乗ったと思うが、乗るの早過ぎじゃない?
前に水上が、後ろに私がおまけ程度に着いて廊下を歩いて行った。ここまで廊下が広いと掃除するのとか大変だろうなあ、とどうでも良いことを考えながら、一番奥の『1682』のナンバープレートが掛かった部屋の前に着いた。
……見た目は普通。怪しいところはなさそう。
「水上です。新たな同居人様が到着されました」
コンコンと二回扉をノックすると、「はーい」の声と共に部屋の奥からパタパタと走ってくる音が聞こえた。
「お部屋の確認等は同居人様が案内して下さいます。流石に私も部屋には入れないので、玄関の近くで待っていますので、終わったらベッドで寝ないで出てきて下さいね」
「わかった」
パタパタと走ってくる音が近づいてくる。そして、ドア越しにいるのがわかる距離までに来た。
「お待たせしました〜、ちょっとお湯沸かしてて……」
「真菜実!?」
「凛ちゃん!?」
そこにいたのは、黄緑色の着物に身を包んだ小学校時代からの親友の真菜実だった。
お互いに吃驚して、真菜実は持っていた木のお盆を床に落とした。
真菜実とは毎日一緒に登校、下校していた仲で、いつも二人で遊んでいたし、どちらかが風邪を引いて学校を休んだらどちらかがプリントを家に届けにくる、一心同体レベルの友達だった。
けれど私が不登校になってからは一度も会っておらず、こんなところで再会できるなんて思ってもなかった。
相手も私も動揺を隠せず、お互いにあわあわとした状態で数分が過ぎた。
「えっ、本当に凛ちゃん? どうしてここに」
「真菜実こそどうしてこんなとこにいるの! というか私が来るって言ってなかったの?」
「ちょっとしたサプライズですよ」
ふふっと口元に手を当てながら悪戯な笑みを浮かべる水上さん。床に落ちたお盆を拾って、真菜実に渡す。真菜実はまだ状況が把握できていないようで、手をパタパタさせながら「すみません、有難うございます」とお礼をして、受け取った。
「と、とりあえず上がって! 水上さんもどうぞ」
お盆で照れた顔を隠しながら、手を部屋の方へ伸ばす。
「あ、いえ、いくら連絡済みでも女性の部屋に入るのは……」
「遠慮しないで下さい、もうお掃除もお茶も出来てるんで」
「ではお言葉に甘えて、失礼します」
水上も照れた顔で渋々上がり、私も続いて「お邪魔します」と部屋に入った。
それにしても照れてれして会話してうふふなんて……新婚さんか。
「やけどしないように気を付けて下さいね」
テーブルの上に熱そうなお茶が二つ置かれ、その隣に和菓子が置かれる。
「頂きます」
「いただきまーす」
水上は正座で、私は足がもう疲れ切ってるので伸ばしてお茶を飲む。……熱ぃ。けどギリギリやけどはしていないようだ。
部屋の中は、薄ピンクと爽やかな黄緑色でまとめられ、クッションやぬいぐるみが多い。めちゃくちゃ女子力が高く、かつ清潔感溢れる部屋。完璧だ。
「それにしてもなんで凛ちゃんがここに?」
水上と私の顔が見える位置に座り、テーブルの周りに三角形をつくる。
「母さんが死んで、病院行って……わかんない。多分誘拐?」
「違います。凛華様のお母様が亡くなられ、父親である京介様が凛華様を引き取ることになりました。そして春より学校に通われます。ここのお部屋には明日から住むことになりますので……」
「えっ! 凛ちゃんのお父さんって、校長先生兼理事長の詩屋先生?」
「いや……私もわからない。家にある写真に写ってたのは確かなんだけど……」
特に説明なく連れてこられたから、やっぱり誘拐されたんじゃないのか、私。「ホイホイ知らない人について行っちゃダメって母さんにも言われてたけど、病院暮らしも飽きてきてたしなあ」というさっきの軽い考えを行動に移した私を殴ってやりたい。
お茶の二口めを飲んで、改めて今日の出来事を振り返って、一人反省会を始める。
「陽水様の言う通り、詩屋先生が凛華様のお父さんです。血もしっかりと繋がっていますよ。疑われるなら遺伝子検査でもしますか?」
「そこまでは疑ってないよ。……ん、陽水って誰? 確か真菜実の苗字は水野だけど」
「ああそれは」と真菜実が止め、少し真剣な目つきになる。
「陽水は、私の新しい苗字よ。名前も、今は真菜実じゃないの」
「……え?」
--どういうこと? さっき真菜実って読んでも普通に返事が返ってきたのに。苗字だけなら親の結婚や離婚で変わるのはわかるけれど、名前まで違うということは、過去の自分を捨てたってこと? それとも芸名みたいなヤツ?
私の脳内は反省から一気に真菜実の名前チェンジの件に入れ替わり、プチパニックに陥る。
「今は、陽水 鶯って名前なの」
「うぐ……いす?」
「そうだよ。でも凛ちゃんには『真菜実』って呼んで欲しいかな」
えへへと何かを隠すように笑い、「そろそろお部屋の説明するね」と話をそらす。
確か真菜実のお母さんは生きているし、離婚したなんてことも聞いていない。真菜実の家は家族全員仲が良く、いつも一緒に毎日ご飯食べるよーって真菜実も言ってた。その真菜実の家に限って離婚なんてことはないと思うし……。
「この後凛華様もわかりますよ」
「え?」
一瞬だけ私の耳元に近寄り、耳打ちをしてすぐ元の体制に戻る水上さん。
……意味がわからない。それが率直な私の感想だった。
「さーて、まずは凛ちゃんのお部屋から案内するから着いてきてね」
可愛らしい笑顔で私の手を握り、「おいでおいでー!」と引っ張りながら走る。着物なのにそんなに勢い良く走っちゃ危ないんじゃないのかと思っていると、とある部屋の前に着いた。
「ここが凛ちゃんのお部屋。隣は私のお部屋だよ。何か困ったことがあったらお気軽に聞きにきてね」
ガチャリとドアノブをひねり、奥へ押すと、シンプルにベッドと小さめの棚、ミニテーブルと照明器具が置いてあった。
……それにしても広いな。
私が住んでた家では、自分の部屋もこの部屋の半分くらいの広さだった。使いこなせるか心配だけど、広くて困るってことは掃除以外ないだろう。
「いやあ、新しくくる人が凛ちゃんだと思わなくて、あまり変なの置くと怒られるかなーと思って家具は少なめだけど、後から注文すれば追加できるから」
さあ次ー、とテンション高めな真菜実に案内され、トイレや浴室、先程いたリビング、キッチン、ベランダなどを確認した。服は下着五セット、半袖長袖パーカーなど、かなりの種類が整って居て、充分すぎるくらいだった。飲み物は冷蔵庫のお茶がメインだよ、と真菜実説明され、無事終了。全体的に部屋は広く、真菜実の掃除が行き届いていて埃一つない。百点満点中百二十点。どういうことなんだ。
「とりあえずざっとこんなところだよ。細かいところは明日見れば良いから。ということでお疲れ様だよー」
一つの部屋に二人人が住むって言ったって、ここまで広くて設備を整えなくても良いのではというのが本音で、歩き回るだけでも結構疲れた。一軒家くらいの部屋が、このフロアに何回もあると思うと、なんちゅー学校寮だって思った。
「あ、じゃあ水上さんのとこいかなきゃ。長く待たせるのも失礼だし」
「そうだね。あ、水上さんは玄関にいるって」
「オッケー。……今日は色々ありがと」
「じゃあ、明日からよろしくね!」
「うん、こちらこそ」
リビングのところで真菜実と別れ、玄関を出る。なんだかとても明日からここに真菜実と住むなんて、考えられない。もしかしたら夢かもしれない。そんなファンタジックなことを考えながら、外で待っていた水上さんと合流する。
「お待たせしましたー」
「それでは行きましょうか」
すっかり水上さんに対しての警戒心も解け、眠る前よりも大分余裕ができていた。
私達は再びエレベーターに乗り、そこで水上がこそこそと何かをしているのに気がついた。
「何してるの?」
「京介様がいらっしゃるお部屋に行くためのパスワードみたいなものです。凛華様にはお伝えしてよろしいとのことなので、よく見ておいて下さい」
そういうと水上さんは、『18』『7』『8』『2』『37』『56』『4』の順番でボタンを押し、最後に『閉』のボタンを連続で三回押した。
《ガコン》
大きな振動と共に、エレベーターは急上昇していった。
「覚え方は『嫌な奴、皆殺し』です。……この事は誰にも言わないで下さい」
今日の中で、初めて見た水上さんの真剣な目。
氷よりも冷たく、ダイヤよりも透き通った目。
やがてエレベーターのカウントは『60』で止まり、ドアが開いた。
一歩出ると、赤黒い壁のような大きな扉に出迎えられ、中から「入りなさい」と声が聞こえた。
「私が来られるのはここまでです。また明日の朝、ここでお待ちしております」
そう言って水上さんはエレベーターの『閉』ボタンを押し、ドアが閉まるまで私にお辞儀し続けた。
本当に、律儀な人。
私は深呼吸をして、扉の取っ手に手をかけた。
静かで、今にもこちらに襲ってきそうな扉。
「失礼します」
少し生まれた恐怖の心を吹き飛ばすように吐き捨て、私は扉を開けた。