聞き耳令嬢、今夜もバルコニー下が指定席で~本日のメインディッシュは婚約破棄のようです~
闇に紛れるドレスの裾。
手のひらには、厨房からこっそり確保した極上のローストビーフと、よく冷えた泡酒。
豪華絢爛な大夜会。その喧騒から逃れた私は、庭園のバルコニーの真下に身を潜めていた。
ここが、私だけの特等席。
社交界では密かに「聞き耳令嬢」と呼ばれているらしい。
もちろん、本人は知らない。
知られたら、二度とこんな贅沢はできなくなる。
普段ここから聞こえてくるのは、
「伯爵家の婚約が危ない」
とか、
「公爵令嬢のドレスは去年の流行」
とか、せいぜいその程度。
だが、今夜は違った。
近づいてくる足音が三つ。
一つは大股で乱暴。もう一つは小刻みで、床を擦るように歩く。
最後の一つだけが静かだった。
(……これは面白い)
乱暴な足音は怒鳴る者。
擦る足音は相手に寄り添う者。
静かな足音は、怒鳴られても動じない者。
経験上、この組み合わせはよく燃える。
私はローストビーフを一枚、口に運んだ。
表面は香ばしく焼き上げられ、切り口は薔薇色。噛むと肉汁がじゅわりと広がり、ローズマリーと黒胡椒の香りが鼻へ抜ける。
冷めてもなお柔らかい。さすが宮廷料理人。今夜もいい仕事をしている。
「――いいか、アリア! お前との婚約は今この瞬間をもって破棄する!」
「来たっ」
本日のメインディッシュである。
「私は真実の愛に目覚めたのだ!」
「満点の出だしね」
泡酒を一口。
細かな泡が舌先ではじけ、青リンゴのような爽やかな香りが広がる。後味はすっきり。肉の脂をきれいに流してくれる。
実に景気がいい。
「殿下ぁ……」
甘ったるい声。最近、社交界に現れた男爵令嬢だ。
(配役まで完璧)
キッシュを頬張る。
こんがり焼けたパイ生地が、さくりと音を立てた。中は卵と生クリームの濃厚なフィリング。炒めた茸の旨味に、トリュフの芳醇な香りが重なる。
婚約破棄には、やっぱりキッシュが合う。
「殿下、お待ちください」
空気が変わった。
婚約者アリアの声は静かだった。
静かすぎる。
(勝った)
私は心の中でうなずいた。
声が震えない令嬢は強い。まして呼吸も乱れていない。
経験上、この時点で勝敗は八割決まっている。
「私が男爵令嬢を階段から突き落とした、というお話ですが」
「そうだ! 彼女は傷ついたのだぞ!」
「その時刻、私は騎士団長と剣術の稽古中でした」
「…………」
「騎士団長、お答えください」
「相違ありません。私が立ち会っておりました」
「一枚返した」
ローストビーフをもう一枚。
今度は添えられた粒マスタードを少しだけ。肉の甘みが引き立ち、舌の上に残る辛みが泡酒を誘う。
「それから、殿下」
アリアの声は変わらない。
「国庫から持ち出された宝石の行方は、こちらの帳簿に記載されています」
「なっ……!」
「男爵令嬢が違法媚薬を売買した記録もございます。代金の振込先は、殿下の私設口座です」
「でたらめだ!」
「証人は六名。帳簿の原本もございます」
「黙れ! お前のような女が、私に逆らえると思っているのか!」
あら。
声が裏返った。
これは見ものだ。
「殿下。もう一つだけ」
「まだあるのか!」
「先月、私に濡れ衣を着せるため、騎士団の記録を書き換えるよう命じたのも殿下ですね?」
「それがどうした! 王族の命令に従うのは当然だろう!」
……あらまあ。
自分で答え合わせまでしてしまった。
私は二枚目のキッシュに手を伸ばした。
パイの端を少しだけ割る。こぼれたフィリングを指先で拾い、口に運ぶ。
ああ、幸せ。
この一口のためなら、多少の危険も冒す価値がある。
「殿下」
アリアが告げる。
「今のお言葉、王国監査院の記録官がすべて記録しております」
「なっ……!」
「そちらにいる方です」
静かな足音の主が、ようやく口を開いた。
「第二王子殿下。恐れながら、これ以上のお言葉はお控えください」
王国監査院の特別監査官。
今夜の大夜会に紛れていたのか。
(これは大当たり)
男爵令嬢の悲鳴。
王子の怒号。
護衛騎士たちが動く気配。
そして、静かな声。
「殿下。国王陛下より、ただちに王宮へお戻りいただくよう命じられております」
肉がうまい。
酒もうまい。
人の自爆劇ほど、食が進むものはない。
「……ふふ」
思わず笑みがこぼれた。
「今日は大当たり」
「ええ。第二王子は期待を裏切りませんね」
「ですよね――」
そこまで言って、私は口を閉じた。
……え?
すぐ隣から返事がした。
ゆっくり振り向く。
月光を背負った長身の男。
漆黒の礼装。胸には隣国軍の紋章。
戦場では悪魔すら震えると噂される、同盟国の司令官だった。
片手にはワイングラス。
もう片方には――私のローストビーフ。
「それ、私のです」
「存じています」
悪びれもせず一口。
「実にいい焼き加減ですね」
「感想は聞いていません。返してください」
「断ります」
「泥棒」
「戦場では徴発や接収と言います」
「ここは王城です」
総司令官は小さく笑った。
「安心してください。私は婚約破棄を邪魔する趣味はありません」
「何の話です?」
「最高の席では、静かに観劇するのが礼儀です」
……同業者だ。
それも、かなりの古株。
「もしかして、毎回来ているんですか?」
「ええ。あなたがここを見つける一年前から」
「……先輩でしたか」
「お気づきで?」
「今まで一度も」
「それは結構」
彼は私の泡酒を手に取った。
「ところで、次の見世物はいつでしょう?」
「さあ。来週あたり、聖女の追放があるとか」
「ほう。それは楽しみだ」
「ご一緒します?」
「もちろん」
彼はグラスを掲げた。
そのとき、バルコニーの上から第二王子の絶叫が響き渡る。
私たちは顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。
今夜も、最高の晩餐だった。
終劇
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