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聞き耳令嬢、今夜もバルコニー下が指定席で~本日のメインディッシュは婚約破棄のようです~

作者: 茨野 三智
掲載日:2026/11/06



 闇に紛れるドレスの裾。


 手のひらには、厨房からこっそり確保した極上のローストビーフと、よく冷えた泡酒。


 豪華絢爛な大夜会。その喧騒から逃れた私は、庭園のバルコニーの真下に身を潜めていた。


 ここが、私だけの特等席。


 社交界では密かに「聞き耳令嬢」と呼ばれているらしい。


 もちろん、本人は知らない。


 知られたら、二度とこんな贅沢はできなくなる。


 普段ここから聞こえてくるのは、


「伯爵家の婚約が危ない」


 とか、


「公爵令嬢のドレスは去年の流行」


 とか、せいぜいその程度。


 だが、今夜は違った。


 近づいてくる足音が三つ。


 一つは大股で乱暴。もう一つは小刻みで、床を擦るように歩く。


 最後の一つだけが静かだった。


(……これは面白い)


 乱暴な足音は怒鳴る者。


 擦る足音は相手に寄り添う者。


 静かな足音は、怒鳴られても動じない者。


 経験上、この組み合わせはよく燃える。


 私はローストビーフを一枚、口に運んだ。


 表面は香ばしく焼き上げられ、切り口は薔薇色。噛むと肉汁がじゅわりと広がり、ローズマリーと黒胡椒の香りが鼻へ抜ける。


 冷めてもなお柔らかい。さすが宮廷料理人。今夜もいい仕事をしている。


「――いいか、アリア! お前との婚約は今この瞬間をもって破棄する!」


「来たっ」


 本日のメインディッシュである。


「私は真実の愛に目覚めたのだ!」


「満点の出だしね」


 泡酒を一口。


 細かな泡が舌先ではじけ、青リンゴのような爽やかな香りが広がる。後味はすっきり。肉の脂をきれいに流してくれる。


 実に景気がいい。


「殿下ぁ……」


 甘ったるい声。最近、社交界に現れた男爵令嬢だ。


(配役まで完璧)


 キッシュを頬張る。


 こんがり焼けたパイ生地が、さくりと音を立てた。中は卵と生クリームの濃厚なフィリング。炒めた茸の旨味に、トリュフの芳醇な香りが重なる。


 婚約破棄には、やっぱりキッシュが合う。


「殿下、お待ちください」


 空気が変わった。


 婚約者アリアの声は静かだった。


 静かすぎる。


(勝った)


 私は心の中でうなずいた。


 声が震えない令嬢は強い。まして呼吸も乱れていない。


 経験上、この時点で勝敗は八割決まっている。


「私が男爵令嬢を階段から突き落とした、というお話ですが」


「そうだ! 彼女は傷ついたのだぞ!」


「その時刻、私は騎士団長と剣術の稽古中でした」


「…………」


「騎士団長、お答えください」


「相違ありません。私が立ち会っておりました」


「一枚返した」


 ローストビーフをもう一枚。


 今度は添えられた粒マスタードを少しだけ。肉の甘みが引き立ち、舌の上に残る辛みが泡酒を誘う。


「それから、殿下」


 アリアの声は変わらない。


「国庫から持ち出された宝石の行方は、こちらの帳簿に記載されています」


「なっ……!」


「男爵令嬢が違法媚薬を売買した記録もございます。代金の振込先は、殿下の私設口座です」


「でたらめだ!」


「証人は六名。帳簿の原本もございます」


「黙れ! お前のような女が、私に逆らえると思っているのか!」


 あら。


 声が裏返った。


 これは見ものだ。


「殿下。もう一つだけ」


「まだあるのか!」


「先月、私に濡れ衣を着せるため、騎士団の記録を書き換えるよう命じたのも殿下ですね?」


「それがどうした! 王族の命令に従うのは当然だろう!」


 ……あらまあ。


 自分で答え合わせまでしてしまった。


 私は二枚目のキッシュに手を伸ばした。


 パイの端を少しだけ割る。こぼれたフィリングを指先で拾い、口に運ぶ。


 ああ、幸せ。


 この一口のためなら、多少の危険も冒す価値がある。


「殿下」


 アリアが告げる。


「今のお言葉、王国監査院の記録官がすべて記録しております」


「なっ……!」


「そちらにいる方です」


 静かな足音の主が、ようやく口を開いた。


「第二王子殿下。恐れながら、これ以上のお言葉はお控えください」


 王国監査院の特別監査官。


 今夜の大夜会に紛れていたのか。


(これは大当たり)


 男爵令嬢の悲鳴。


 王子の怒号。


 護衛騎士たちが動く気配。


 そして、静かな声。


「殿下。国王陛下より、ただちに王宮へお戻りいただくよう命じられております」


 肉がうまい。


 酒もうまい。


 人の自爆劇ほど、食が進むものはない。


「……ふふ」


 思わず笑みがこぼれた。


「今日は大当たり」


「ええ。第二王子は期待を裏切りませんね」


「ですよね――」


 そこまで言って、私は口を閉じた。


 ……え?


 すぐ隣から返事がした。


 ゆっくり振り向く。


 月光を背負った長身の男。


 漆黒の礼装。胸には隣国軍の紋章。


 戦場では悪魔すら震えると噂される、同盟国の司令官だった。


 片手にはワイングラス。


 もう片方には――私のローストビーフ。


「それ、私のです」


「存じています」


 悪びれもせず一口。


「実にいい焼き加減ですね」


「感想は聞いていません。返してください」


「断ります」


「泥棒」


「戦場では徴発や接収と言います」


「ここは王城です」


 総司令官は小さく笑った。


「安心してください。私は婚約破棄を邪魔する趣味はありません」


「何の話です?」


「最高の席では、静かに観劇するのが礼儀です」


 ……同業者だ。


 それも、かなりの古株。


「もしかして、毎回来ているんですか?」


「ええ。あなたがここを見つける一年前から」


「……先輩でしたか」


「お気づきで?」


「今まで一度も」


「それは結構」


 彼は私の泡酒を手に取った。


「ところで、次の見世物はいつでしょう?」


「さあ。来週あたり、聖女の追放があるとか」


「ほう。それは楽しみだ」


「ご一緒します?」


「もちろん」


 彼はグラスを掲げた。


 そのとき、バルコニーの上から第二王子の絶叫が響き渡る。


 私たちは顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。


 今夜も、最高の晩餐だった。




 終劇


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


短篇を他サイトなどで書いています。

今後も投稿する予定です。


ぜひ、お立ち寄りくださいませ。

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