東海道・狐の嫁入り奇譚
それは、まだ川崎が「川崎宿」と呼ばれ、東海道を行き交う旅人たちで賑わっていた江戸時代のお話。
現在の川崎区本町あたり、多摩川を渡る「六郷の渡し」の手前には、旅籠や茶屋が軒を連ね、昼夜を問わず活気に溢れていました。
ある年の秋、暦の上ではとっくに日が暮れた、おそろしく霧の深い夜のことです。
川崎宿の若き飛脚、弥助は、江戸へと届ける大切な書状を懐に抱え、家々の灯りが消えかけた夜道を急いでいました。多摩川の川辺に近づくにつれ、あたりを包む霧はどんどん濃くなり、自分の足元さえ見えないほどになります。
「おかしな霧だな。まるで行く手を阻まれているようだ……」
弥助が足を止めた、その時でした。
霧の向こうから、かすかに「トントン、チキチキ」と、雅な笛や太鼓の音が聞こえてきたのです。それと同時に、ぼんやりとした赤い灯りがひとつ、またひとつと、列をなして現れました。
怪しんで物陰に隠れた弥助は、目を丸くしました。
霧を割って進んできたのは、見事な白無垢をまとった花嫁と、それを囲む奇妙な行列でした。格式高い着物に身を包んだお供の者たちは、みんな一様に、人間の体に「狐の顔」を持っていたのです。
狐たちの手にある提灯が、怪しくも美しい紅色の光で東海道の闇を照らしていました。
(これは……噂に聞く『狐の嫁入り』か!)
息を殺す弥助の前を、行列は静静と通り過ぎていきます。六郷の渡し場へ向かっているようでした。
しかし、行列が弥助の隠れるすぐ横を通り過ぎようとしたその瞬間、ふわりと一陣の風が吹き、花嫁の綿帽子がめくれ上がりました。
そこにいたのは、透き通るような肌を持った、この世のものとは思えないほど美しい狐の娘でした。けれど、その美しい瞳からは、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちていたのです。
娘の涙を見た弥助は、恐ろしさも忘れて、思わず声を上げてしまいました。
「待ってくれ! どうしてそんなに悲しそうな顔をしているんだ?」
行列がぴたりと止まりました。狐のお供たちが一斉に弥助を睨みつけ、低いうなり声を上げます。しかし、花嫁の娘はそれを手で制し、静かに口を開きました。
「私たちは、多摩川を渡った先へ嫁ぐ一族です。ですが、今夜は霧が深く、渡し舟の船頭さんも眠りについてしまいました。この川を渡りきらねば、婚礼の吉刻に間に合わず、我が一族に災いが降りかかってしまうのです……」
弥助は懐の書状に目をやりました。自分も急ぎの身です。しかし、涙を流す娘を放っておくことはできませんでした。
「よし、俺に任せてくれ! 飛脚の意地にかけて、船頭を起こして舟を出させてみせる!」
弥助は脱兎のごとく霧の中を駆け抜け、渡し場の小屋へと飛び込みました。熟睡していた船頭の肩を揺さぶり、「一刻を争う大事な客人がいるんだ!」と必死で説得し、強引に舟を出させたのです。
多摩川の漆黒の水面に、狐たちの赤い提灯の光がゆらゆらと映り込みます。
弥助と船頭の手によって、狐の行列を乗せた舟は、無事に川を渡りきることができました。対岸の地を踏んだ花嫁の娘は、最後に弥助を振り返り、今度は満面の笑みを浮かべて深く頭を下げました。
「お若いの、この御恩は決して忘れません」
その言葉を最後に、狐たちの姿は煙のように消え去り、同時にあれほど深かった霧も、嘘のように晴れ渡りました。夜空には、美しい満月がぽっかりと浮かんでいました。
おかげで弥助も、無事にその夜のうちに江戸へ書状を届けることができたのです。
それから長い年月が経ち、川崎宿は近代的なビルや工場が立ち並ぶ大きな街へと姿を変えました。
ですが今でも、秋の夜に川崎の街へふっと不思議な霧が立ち込めることがあります。そんな夜、多摩川の土手に立つと、どこからかかすかに祭り囃子が聴こえてくる気がするのです。それは、かつて若き飛脚が救った、狐たちの幸せな婚礼の記憶なのかもしれません。




