結婚という名の地雷(前半)
第5章:結婚という名の地雷(前半)
月曜日のオフィスは、週末に溜まった淀んだ空気を切り裂くような、騒がしいキーボードの打鍵音と電話の呼び出し音に支配されていた。
紗季は、こびりつくような眠気をカフェインで無理やり押し殺しながら、進行管理表の数字を追いかけていた。画面上の数字は無機質で、感情を挟む余地がない。今の彼女にとって、この「無機質さ」だけが唯一の救いだった。
ふと、視界の端に航平の姿が映る。
彼は隣のチームのデスクで、後輩の女の子に熱心に何かを教えていた。
「……あ、そこはクライアントの意向を汲みつつ、こっちのクリエイティブを立てるのがコツだよ」
快活な声。後輩の女の子は、憧れを隠しきれないような瞳で彼を見つめ、熱心にメモを取っている。
航平は、職場で人気がある。
仕事は丁寧で速く、何より誰に対しても分け隔てなく接する明るさがある。27歳という若さ、清潔感のある容姿、そして漂う心の余裕。彼ならば、相手を選び放題なはずだ。同じチームの若い子や、取引先の女性から誘われることだって少なくないだろう。
(なのに、どうして……)
紗季は、手元のマウスを握りしめた。
なぜ彼は、わざわざ私を気にかけるのだろう。
私は彼より一つ年上で、おまけに二年も遠距離恋愛を続けている恋人がいることを公言している。常識的に考えれば、彼氏がいる女性、しかも遠距離で精神的に不安定になりがちな「年上の先輩」なんて、恋愛対象としてはコストパフォーマンスが悪すぎるはずだ。
普通の男なら、もっと「手近」で「確実」な幸せを求めるのではないか。
重たい悩みを抱えていなさそうな、二十代前半の、笑顔が似合う女の子。彼には、そんな相手が相応しいはずなのに。
「紗季さん。……紗季さん?」
不意に名前を呼ばれ、紗季はハッと顔を上げた。
いつの間にか、航平が自分のデスクの横に立っていた。後輩との打ち合わせが終わったのだろうか。彼は、昨日送った嘘の「残業宣言」には一言も触れず、ただ穏やかにファイルを手渡してきた。
「これ、例の修正案件の最新版です。お疲れ様です。……コーヒー、飲みますか? 今、新しいの淹れに行くところなんですけど」
その自然な振る舞いに、紗季の胸の奥がざわついた。
彼は、私の「嘘」に気づいている。昨夜、東京駅で断りを入れた時、私が「新幹線酔い」なんていう、子供のような言い訳で逃げたことを。そして今朝、目の下に濃いクマを作って出社した私が、ちっとも「元気」ではないことも。
気づいていながら、彼は決してそこを突かない。
「……あ、ありがとう。お願いしてもいいかな」
「了解です。ブラックでいいですよね」
彼は軽く片手を上げて、パントリーへと向かった。
その後ろ姿を見つめながら、紗季は仕事に戻るふりをして、再び思考の迷宮へと潜り込んだ。
なぜ、彼は私を食事に誘うのだろう。
なぜ、私が拓真からの「未読」という暴力に晒されている時に限って、絶妙なタイミングで連絡をくれるのだろう。
寂しさを埋めてほしいから?
いや、彼は寂しそうなタイプではない。
それとも、落としがいがあると思っている?
そんな計算高いことをするようには、どうしても見えない。
一番怖いのは、彼が「本気」で私を心配していることだ。
もし、彼の優しさが下心のない純粋な好意なのだとしたら、今の私は彼に対してどれほど不誠実だろう。
私は今、彼の優しさを、拓真に愛されないことへの「慰め」として利用しようとしている。自分の価値を再確認するために、彼の好意を天秤にかけている。
(最低だ……私)
28歳。もう、無知を装って甘えられる年齢ではない。
彼が何を求めているのか、自分が何を差し出せるのか。それをはっきりさせないまま、彼の温もりに触れ続けることは、彼の時間を奪うことと同じだ。
ふと、スマートフォンが机の上で震えた。
拓真からだろうか。
期待と恐怖が混じった感覚で画面を見る。
『あ、コーヒー淹れ終わりました。今戻ります。……あ、そういえば、例のお鍋の店、来週の金曜日なら空いてるみたいですよ』
航平からのチャット。
彼は、私が断った昨日を「なかったこと」にして、また新しい未来を提示してくれる。
「次はいつ会える?」と聞くことさえ怖くなった拓真とは正反対の、眩しいほどの前向きさ。
紗季は、画面を見つめたまま固まった。
拓真との関係が、かつてはこうだった。
どちらかが沈んでいれば、もう片方が手を引いて、明るい方へ連れ出していた。
いつから、私たちは「お互いを沈め合う」関係になってしまったのだろう。
パントリーから戻ってきた航平が、湯気の立つマグカップをそっと置いた。
「どうぞ。……紗季さん」
「ん?」
「……そんなに怖い顔して仕事してると、クライアントに逃げられちゃいますよ。ちょっとだけ、深呼吸してください」
彼はそう言って、誰にも聞こえないような小さな声で付け加えた。
「僕は、紗季さんが笑って仕事してる姿、好きなんですけどね」
心臓が、大きく一度だけ跳ねた。
彼はそれだけ言うと、自分の席に戻り、何事もなかったかのように電話を取り始めた。
紗季は、熱いコーヒーを一口含んだ。
喉を通る温かさが、痛い。
なぜ私なのか。その問いの答えは、まだ見つからない。
けれど、彼が提示し続けてくれる「優しさ」という選択肢から、これ以上逃げ続けることはできないような気がしていた。
仕事の手を止めず、紗季は決意する。
今夜、もう一度拓真に連絡をしよう。
もしそれでも既読がつかなければ――。
砂時計の最後の一粒が、今にも落ちようとしていた。




