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三月の砂時計:届かない声と、隣にある温度  作者: 久遠 睦


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雨傘と優しさの距離(後半)

第4章:雨傘と優しさの距離(後半)


 朝の光が、埃の舞うワンルームを容赦なく照らし出していた。

 紗季は重たい体を引きずり、洗面所の鏡の前に立った。昨夜から一度も落としていないメイクが、目の周りで薄汚く滲んでいる。その疲れ果てた顔は、28歳という年齢の「現在地」を突きつけてくるようだった。

 ふと、視界の端に、棚の奥に置かれた小さなスノードームが映った。

 二年前、付き合い始めて最初の冬に、拓真が仙台のクリスマスマーケットで買ってくれたものだ。

『これ、紗季に似てると思って。なんか、放っておけない感じ』

 そう言って笑った拓真の瞳は、確かに熱を帯びて私だけを見ていた。

 あの頃の私たちは、二時間の距離なんて、ただの数字だと思っていた。「会えない時間が愛を育てる」なんて使い古された言葉を、本気で信じていた。

 新幹線の改札で見送られるたび、彼は私の姿が見えなくなるまで手を振り続けてくれた。ホームで一人になった瞬間に届く『もう寂しい』というLINE。あの通知音が、どれほど私の日常を輝かせていただろう。

(あの拓真は、どこへ行ってしまったの……?)

 ドームを逆さまにしてみる。中の白い粒が舞い上がり、ゆっくりと沈んでいく。

 かつての思い出をなぞればなぞるほど、現在の「未読」という沈黙が、鋭い刃物のように胸を切り裂く。

 

 彼が変わってしまったのか。それとも、私が彼を変えてしまったのか。

 二年前、私はもっと軽やかだった。彼の仕事が忙しくても「頑張ってね」と笑って流せた。けれど、28歳になった今の私は、彼の言葉ひとつに一喜一憂し、その裏にある「終わり」の気配に怯え、勝手に絶望している。

 この「重さ」が、彼を遠ざけたのかもしれない。

 スマートフォンが、短く震えた。

 心臓が跳ね、慌てて画面を見る。……拓真ではない。

 航平からだった。

『おはようございます。昨日は大丈夫でしたか? 今日は雨が本降りみたいなので、足元気をつけてくださいね。もしよければ、夕飯、温かいものでも食べて帰りませんか』

 航平の言葉は、いつも春の陽だまりのように穏やかだ。

 彼は、私が拓真との関係でボロボロになっていることを、薄々気づいているはずだ。それでも彼は、決して土足で踏み込んでこない。ただ、私が独りで凍えている時に、そっと毛布を掛けてくれるような、そんな優しさを持ち合わせている。

(瀬戸君と一緒にいたら、こんなに泣かなくて済むのかな)

 想像してみる。航平の隣を歩く自分を。

 彼はきっと、歩幅を私に合わせてくれるだろう。食事中も、私の話に熱心に耳を傾けてくれるだろう。LINEが既読にならないまま朝を迎えるなんて、彼なら私にさせないだろう。

 けれど、そう思うのと同時に、猛烈な自己嫌悪が紗季を襲った。

 今の私が航平に求めているのは、彼自身ではない。彼が持っている「優しさ」という名の薬だ。

 傷ついて、自信を失い、誰かに肯定されたくてたまらない。そんな情けない自分の穴を埋めるために、彼の純粋な好意を利用しようとしているのではないか。

(今の私には、彼の優しさに応える資格なんてない)

 彼を好きになる自信がない。いや、今の私は、自分自身のことさえ好きになれないのだ。

 拓真という、私を愛してくれなくなった男に執着し、未読の画面に一晩中縋り付いている、こんな惨めな女。

 そんな状態で、航平の真っ直ぐな瞳を見つめることなんてできない。彼の優しさは、今の私にはあまりにも眩しすぎて、直視すれば自分の醜さが浮き彫りになってしまう。

 紗季は、震える手で返信を打った。

『おはよう。気にかけてくれてありがとう。でも、今日は仕事が溜まってるから、残業になりそう。また今度ね』

 また、嘘をついた。

 本当は、誰かに側にいてほしい。温かいスープを飲んで、「大丈夫だよ」と言ってほしい。

 けれど、その役割を航平に担わせてはいけない。

 それは、自分に対する最後のリプライであり、彼に対する最低限の誠実さだと思った。

 クローゼットから、仕事用のジャケットを取り出す。

 鎧を着込むように、彼女は「佐藤紗季」を作り上げていく。

 

 ふと、鏡の中の自分と目が合った。

 

 別れるのが怖いのは、拓真を失うからではない。

 「誰からも選ばれなかった自分」という事実に直面するのが、怖いのだ。

 28歳。人生の折り返し地点でもないのに、何かが終わってしまうような、取り返しのつかない分岐点に立たされているような、そんな得体の知れない恐怖。

 けれど、砂時計の砂は止まってくれない。

 

 紗季は、電源を切る寸前のスマートフォンを充電器に繋いだ。

 相変わらず、拓真からの既読はついていない。

 その空白こそが、今の彼からの唯一の「返信」なのだと、彼女は薄暗い部屋の中でようやく認め始めた。

 外では、予報通り雨が降り始めていた。

 アスファルトを叩く激しい雨音が、部屋の静寂をかき乱す。

 

 彼女は深く、深く呼吸をした。

 肺に溜まった淀んだ空気をすべて吐き出すように。

 

 「……行かなきゃ」

 

 独り言は、雨音にかき消された。

 傘を掴み、彼女はドアを開けた。

 冷たい風が吹き込み、彼女の頬を濡らす。

 

 航平の待つオフィスへ。

 拓真のいない日常へ。

 

 彼女は、自分の弱さを抱えたまま、一歩踏み出した。

 それが、正解かどうかもわからないままに。


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