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三月の砂時計:届かない声と、隣にある温度  作者: 久遠 睦


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雨傘と優しさの距離(前半)

第4章:雨傘と優しさの距離(前半)


 玄関のドアを閉めた瞬間、重たい沈黙が紗季を包み込んだ。

 明かりもつけず、彼女は靴を脱ぎ捨ててフローリングに座り込む。冷たい床の感触が、ストッキング越しに体温を奪っていく。バッグから取り出したスマートフォンだけが、無機質な通知を一つも発することなく、掌の中で冷え切っていた。

 部屋の中は、彼女が仙台へ発つ前のまま、時間が止まっている。

 テーブルの上には、飲みかけで放置されたペットボトルの水。壁に掛かったカレンダーの数字。すべてが「二日前の自分」を指し示しているのに、今の紗季は、もうあの頃の自分には戻れないことを悟っていた。

 震える指で、彼女はメッセージアプリを開いた。

 拓真とのトーク画面。最後の一行は、駅での「気をつけてな」という彼の乾いた言葉をなぞるような、自分の短い返信だ。

 紗季は、迷いながらも文字を打ち込み始めた。

『無事に家に着いたよ。雨が降ってきたから、拓真も風邪引かないようにね。……次はいつ、ゆっくり話せるかな』

 最後の一文を打つ時、呼吸が止まった。

 これは、単なる安否確認ではない。「まだ、私たちには続きがあるよね?」という切実な確認であり、同時に「私を一人にしないで」という悲鳴のような懇願だった。

 送信ボタンを押す。

 青い吹き出しが画面に現れる。

 時刻は、午後十時四十五分。

 そこから、地獄のような「待ち時間」が始まった。

 紗季はコートも脱がず、暗闇の中で画面を見つめ続けた。

 一分。二分。五分。

 画面が消えるたびに、電源ボタンを押して明かりを灯す。

 「既読」の二文字がつかない。

 拓真が今、何をしているかは想像がつく。おそらく風呂に入っているか、あるいはテレビを眺めながら、通知に気づいても「あとでいいか」と放置している。あるいは、気づかないふりをして、スマートフォンを裏返している。

(……ねえ、拓真。どうして返してくれないの?)

 心の中で問いかける声は、部屋の壁に跳ね返って自分に戻ってくる。

 ふと、恐ろしい考えが頭をよぎった。

 私は、本当にまだ彼のことが好きなのだろうか。

 二年前、付き合い始めたばかりの頃。彼の声を聞くだけで心臓が弾み、世界が色彩を取り戻したあの感覚。それを「愛」と呼ぶのなら、今のこの苦しみは何なのだろう。

 今の私が彼を繋ぎ止めようとしているのは、彼という人格を愛しているから?

 それとも、二十八歳という年齢で「一人」になるのが、ただ死ぬほど怖いから?

 別れるということ。

 それは、この二年間積み上げてきた思い出をすべて「無駄」だと認めることだ。

 週末を費やして仙台へ通った時間も。

 将来を語り合って信じた約束も。

 高い新幹線代を払って買い集めた「いつか二人で使うはずだった」夢の欠片も。

 それらすべてが、ただの「失敗」として整理されてしまう。その喪失感に、今の自分は耐えられそうにない。

 それに、今からまた新しい誰かと出会い、一から関係を築き、家族に紹介し、結婚というゴールを目指す――その膨大なエネルギーを、今の自分が持っているとは思えなかった。

 航平の顔が浮かぶ。

 彼は優しい。彼は私を求めてくれている。

 けれど、彼との未来を想像しようとすると、足元がふわふわと浮き上がるような、地に足がつかない感覚になる。

 私は、拓真という「確実だったはずの未来」に執着しているだけなのかもしれない。

 午前一時。

 スマートフォンのバッテリーが20%を切った。

 依然として、既読はつかない。

 紗季は、ふと思う。

 もし明日、拓真が突然以前のような優しさを取り戻したら。

 「ごめん、仕事が落ち着いたから、またやり直そう」と、昔みたいに私を抱きしめてくれたら。

 私は、心から笑って、昔のように彼の手を握り返せるだろうか。

 答えは、暗闇の中に沈んでいた。

 一度冷え切ったスープを温め直しても、最初の味には戻らない。

 一度ひびの入った花瓶は、どんなに接着剤で固めても、水を入れればいつか漏れ出す。

 私はもう、拓真を信じていたあの頃の、無邪気な二十六歳の自分には戻れない。

 彼が優しくなればなるほど、私は「どうしてあの時、あんなに冷たかったの?」と、過去の傷跡をなぞってしまうだろう。

 暗い部屋で、紗季は膝を抱えて丸くなった。

 二十八歳。

 一人で生きるにはまだ弱く、誰かに縋るにはもう幼くない。

 

 スマートフォンの画面が、再び消えた。

 充電器に繋ぐ気力もなく、彼女はそのまま意識を混濁させていった。

 ……そして。

 カーテンの隙間から、灰色がかった冬の光が差し込み始めた頃。

 紗季は、冷え切った体で目を覚ました。

 慌ててスマートフォンを確認する。

 通知は――ない。

 拓真のトーク画面。昨夜送ったメッセージの横には、相変わらず空白が広がっている。

 既読すらつかないまま、朝を迎えてしまった。

 彼女は、乾いた笑いを漏らした。

 「忙しい」なんて言葉では、もう説明がつかない。

 彼は、私のメッセージを読みたくないのだ。

 私の存在そのものが、今の彼にとって、視界に入れたくないノイズになっている。

 紗季は、ゆっくりと立ち上がった。

 足が痺れて、一歩踏み出すたびに針で刺されたような痛みが走る。

 けれど、その痛みだけが、今の自分が生きていることを証明していた。

 窓の外では、通勤を急ぐ人々の足音が聞こえ始めている。

 今日もまた、何事もなかったかのように一日は始まる。

 既読のつかないスマートフォンをバッグに放り込み、彼女は洗面所へと向かった。

 冷たい水で顔を洗う。

 鏡の中の自分に、彼女は心の中で呟いた。

(……ねえ、私。もう、いいよね)

 答えはまだ、風の中に消えていったけれど。

 砂時計の砂は、もう、最後の一粒さえも落ちきろうとしていた。


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