既読がつかない金曜日(後半)
第3章:既読がつかない金曜日(後半)
東京駅、丸の内中央口。改札を抜けた瞬間に押し寄せる人の波は、仙台の駅で見送ってくれた拓真の冷ややかな態度とは対照的に、容赦ない熱気を持って紗季を圧倒した。
行き交う人々は皆、どこかへ帰る場所があり、待っている誰かがいるように見える。キャリーバッグの車輪を引く音が、大理石の床に反響して耳障りに響く。紗季はその音から逃げるように、コンコースの隅にある円柱の影に身を寄せた。
バッグの中で、スマートフォンが再び微かに震える。
画面を確認するまでもない。航平からの、あのタイ料理屋の提案に対する返事を、自分はまだ保留にしたままだ。
(……行けば、楽になれるんだろうな)
ふっ、とそんな思考が頭をよぎる。
航平に会えば、彼はいつものように穏やかな笑顔で迎えてくれるだろう。私の顔色を見て、「お疲れ様です」と温かいおしぼりを差し出し、パクチーの香りと辛いスープで、凍りついた心を無理やり解かしてくれるかもしれない。
「仙台、どうでした?」なんて野暮なことは聞かずに、ただとりとめのない仕事の話をして、私が笑うまで静かに待ってくれる。そんな彼の体温に触れれば、今この胸を刺している拓真への絶望を、ほんの一時でも忘れられるに違いない。
けれど。
紗季は、震える指でスマートフォンのロックを解除した。
航平のアイコンが、トークリストの上部で点滅している。彼が送ってくれたタイ料理屋の写真は、鮮やかで、幸福そうで、今の自分の灰色な心境とはあまりにかけ離れていた。
(今の私は、瀬戸君を求めているんじゃない。ただ、『独りじゃない』と思わせてくれる『誰か』を求めているだけだ)
その残酷な自覚が、彼女の足を止めた。
もし今、彼に会いに行けば、私は間違いなく彼の優しさに甘えてしまう。拓真に拒絶された傷を癒やすために、航平という一人の男性の純粋な好意を「絆創膏」のように使ってしまう。
それは、航平に対してあまりに失礼ではないか。
そして何より、そんな風に誰かを利用してしか立っていられない自分を、これ以上嫌いになりたくなかった。
航平は、悪くない。
彼はただ、真っ直ぐに私を見ているだけだ。
悪いのは、拓真との関係が腐りかけていることに気づきながら、それを切り捨てる勇気も持てず、かといって新しい光へ踏み出す覚悟もない、中途半端な私自身だ。
紗季は深く息を吸い込み、冷たい空気で肺を満たした。
メッセージの入力画面を開く。
『ごめん、瀬戸君。今日はやっぱり、すごく疲れちゃって。また今度でもいいかな?』
一度打ち込んでから、彼女は「また今度」という言葉を削除した。
その言葉は、期待を持たせる「嘘」になる。今の自分に、彼と次の約束をする資格なんてない。
『ごめん。今日は新幹線で酔っちゃったみたいで、まっすぐ帰るね。誘ってくれたのに本当にごめんなさい。また明日、会社で』
当たり障りのない、けれど明確な拒絶。
送信ボタンを押す指先が、わずかに震えた。
「送信」の文字が消え、既読がつくまでのわずかな数秒。彼女は、自分が唯一の逃げ道を自ら塞いだことを悟った。
数分後。
『そうですか。それは大変でしたね。ゆっくり休んでください。お土産話は、また元気になった時に。おやすみなさい!』
返ってきたのは、相変わらずの、押し付けがましくない気遣いだった。
その優しさが、かえって紗季の胸を締め付ける。
「ありがとう」とも返せず、彼女はスマートフォンをバッグの奥深くに押し込んだ。
エスカレーターに乗り、地下鉄のホームへと降りていく。
一人分の重さを乗せて、機械的に運ばれていく自分。
二十八歳。
かつて夢見ていた二十八歳は、もっと賢くて、もっと潔くて、恋も仕事も鮮やかに捌いているはずだった。
現実はどうだ。
遠距離の彼氏には体よくあしらわれ、好意を寄せてくれる後輩には不誠実な態度を取り続け、結局、何も選べないまま東京の地下深くを彷徨っている。
電車が滑り込んでくる。
ドアが開くと同時に、彼女は再び人混みの中に自分を投げ入れた。
独りで帰る、静かなワンルーム。
そこには、冷え切った空気と、昨日の朝に出したままのコーヒーカップが待っているだろう。
けれど、今はそれでいい。
寂しさを紛らわすために誰かの時間を奪うより、この底冷えするような孤独を、自分一人で飲み込む方が、まだ「自分」でいられる気がした。
車窓に映る自分の顔は、相変わらず酷いものだった。
けれど、航平への連絡を断ったことで、心の中にほんのわずかな、氷のような透明な決意が宿ったのも事実だった。
(まずは、ちゃんと終わらせなきゃ)
拓真との関係。あるいは、拓真を想い続けている自分自身との、決着。
地下鉄の轟音の中で、紗季は誰にも聞こえない声で、自分にそう言い聞かせた。
駅を出ると、夜の東京には雨が混じり始めていた。
傘を持っていない彼女の肩を、冷たい雫が濡らしていく。
けれど彼女は足を止めず、ただ前だけを見て、自分の部屋へと続く暗い夜道を歩き続けた。
二十八歳の冬。
彼女が本当の意味で「自分の足」で歩き始めるための、これが長い、長い夜の始まりだった。




