既読がつかない金曜日(前半)
第3章:既読がつかない金曜日(前半)
新幹線「はやぶさ」が仙台駅を滑り出すと、重たい静寂が紗季を包み込んだ。
三列シートの窓際。幸いにも隣の二席は空いている。彼女は深く座席に沈み込み、まだ冷たさの残る窓ガラスに額を預けた。
視界の端で、さっきまで隣にいたはずの街が、猛烈な速度で後ろへと引き剥がされていく。それは、今の自分と拓真の関係そのもののようだった。
(……なんで、あんなに遠くなっちゃったんだろう)
膝の上に置いたバッグの中には、食べられずに持ち帰ることになった、昨日渡したはずの洋菓子の袋が重なっている。拓真は「あとで食べるよ」と言ったきり、キッチンの隅にそれを置いたまま、今朝も触れることはなかった。
思考は、止まることを知らないメリーゴーランドのように、同じ場所をぐるぐると回り始めた。
まず浮かぶのは、彼が繰り返した「仕事が忙しい」という言葉だ。
確かに彼は責任ある立場になり、プロジェクトも抱えているのだろう。けれど、自分だって同じだ。広告代理店の制作進行。深夜まで及ぶ修正作業、理不尽なクライアント、予期せぬトラブル。日々、擦り切れるような思いで働いている。
それでも、私は新幹線に乗った。
一分でも一秒でも早く彼に会いたくて、仕事の合間を縫って美容院に行き、彼が好きだと言っていた色のコートを選んだ。
「忙しい」は、会いたくない時の免罪符なのだろうか。それとも、単に優先順位が下がったという残酷な事実をオブラートに包んだだけなのだろうか。
(私が、重いのかな……)
次に浮かんだのは、自分という存在が彼の負担になっているのではないか、という疑念だ。
二十八歳。この年齢が持つ、目に見えない「重圧」。
自分では意識していないつもりでも、ふとした会話に「将来」や「結婚」の気配が混じってしまうのかもしれない。彼にとって、自分との逢瀬は安らぎではなく、決断を迫られる「義務」へと変わってしまったのではないか。
もし、私がもっと若くて、ただ「今」を楽しめる女だったなら。あるいは、もっと自立していて、彼を必要としない女だったなら。
……けれど、そんな仮定は何の救いにもならない。私は、彼と一緒に歩む未来を信じていたからこそ、この二年間を繋いできたのだ。
そして、最も考えたくない、けれど一度浮かぶと消えてくれない、黒い霧のような想像。
(仙台に、誰かいるのかな)
彼の部屋は、以前よりも片付いていた。
それは単に忙しくて散らかる暇もないのか、それとも「誰か」が来る準備ができているからなのか。
彼が肌を重ねてくれなかったのは、単に疲れていたから? それとも、別の誰かの体温が彼の記憶に新しく、自分を抱くことに後ろめたさを感じたから?
スマートフォンの通知を異常に気にしていた彼。以前なら、私の前で隠さずに返信していたのに、昨日は画面を伏せていた。
考え始めれば、すべての断片が「裏切り」の証拠に見えてくる。けれど、それを問い詰める勇気はなかった。真実を知ることよりも、今のこの「不確かな平和」を壊すことの方が、今の紗季には耐え難かった。
新幹線が、福島を通り過ぎ、関東平野へと入っていく。
流れる景色は、雪の白から、乾いた冬の茶色へと変わる。
ふと、バッグの中でスマートフォンが震えた。
期待はしていない。でも、指は勝手に画面を探す。
届いていたのは、航平からの写真だった。
『駅前においしそうなタイ料理屋を見つけました。紗季さん、パクチー大丈夫でしたよね? お疲れ様会、ここでもいいかもです』
添えられた写真は、明るい店内の様子と、彼が持っていると思われるメニュー表の一部。
航平。
彼は、私が今この瞬間に、どれほど惨めな思いで新幹線に乗っているかを知らない。知らないからこそ、彼の言葉はまっすぐに届く。
彼にとって、私は「義務」ではない。彼は、ただ私に会いたいと思って、私が喜ぶ場所を探してくれている。
そのシンプルさが、今の紗季にはあまりにも眩しくて、そして切なかった。
(どうして、好きな人と、必要としてくれる人が、別人なんだろう)
拓真。
かつての彼は、航平のように私を求めてくれた。
砂時計の砂が落ちるように、愛はいつか、形を変えて消えていくものなのだろうか。
二十八歳という節目に立って、自分はまだ、去りゆく季節に縋っているだけなのかもしれない。
新幹線はスピードを落とすことなく、大宮を通過した。
高層ビルが立ち並び、空が狭くなっていく。
現実が、すぐそこまで迫っている。
東京駅に着けば、私はまた「仕事ができる佐藤紗季」に戻らなければならない。仙台での、あの冷え切った夜のことなど、なかったことにして。
やがて、新幹線はゆっくりと減速を始めた。
「まもなく、終点、東京です」
無機質なアナウンスが車内に流れる。
紗季は、窓硝子に映る自分の顔を見つめた。
泣いてはいない。けれど、その瞳は深く、出口のない迷路の中を彷徨っているようだった。
プシュッ、とドアが開く音が、自分を現実に引き戻す。
紗季は、重たいキャリーバッグを引きずりながら、ホームに降り立った。
そこには、仙台の凍てつく空気とは違う、人の熱気と排気ガスが混じり合った、東京特有の濁った冬の風が吹いていた。
数分前まで考えていた「拓真の心変わり」も、「重荷な自分」も、この都会の喧騒の中では、ちっぽけな砂粒のようにかき消されていく。
けれど、胸の奥にある鈍い痛みだけは、消えてくれなかった。
「……帰ろう」
誰に言うでもなく呟き、彼女は人混みの中へ足を踏み出した。
出口へ向かうエスカレーター。
その先で、航平が待っている。
彼に会えば、私はこの痛みを忘れられるのだろうか。
それとも、彼の優しさが、さらに私を追い詰めるのだろうか。
東京駅の巨大な天井を仰ぎ見ながら、紗季は一歩一歩、自分の重さを確かめるように歩き始めた。




