沈黙の熱量、冷めた体温(後半)
第2章:沈黙の熱量、冷めた体温(後半)
冬の朝の光は、残酷なほどに無機質だった。
カーテンの隙間から差し込む青白い光が、安っぽいフローリングを照らし出す。紗季は、重たい瞼をゆっくりと開けた。実際には、一度も閉じてはいなかったのだが、そうすることでしか、昨日から続く絶望的な夜に区切りをつけられなかった。
隣では、拓真がまだ眠っている。
無防備な寝顔。かつては、この顔を見ているだけで、新幹線を二時間乗り継いできた疲れなど吹き飛んだ。けれど今は、その寝顔が遠い国の彫刻のように、何の感情も呼び起こさない。いや、正確には、感情を動かすのが怖くて、心を麻痺させているのだ。
(……二十八歳。私は、ここで何をしているんだろう)
体中の関節が、一晩中同じ姿勢で固まっていたせいで悲鳴を上げている。紗季は音を立てないようにベッドを抜け出し、洗面所へ向かった。
鏡の中にいたのは、ひどく疲れ果てた一人の女だった。目の下にはうっすらとクマが浮き、唇は乾燥して血の気がない。これが、恋人に会いに来た翌朝の顔だろうか。
彼女は蛇口をひねり、凍りつくような冷水で顔を洗った。感覚が麻痺するほどの冷たさが、かえって心地よかった。
「……あ、起きてたんだ」
背後から、拓真の声がした。起きてきた彼は、寝癖のついた頭をかきながら、欠伸を一つ漏らす。
「おはよう。……昨日はよく眠れた?」
紗季は、鏡越しに彼を見た。その問いに、深い意味はない。ただの社交辞令だ。
「うん、ぐっすり。拓真は?」
「ああ、俺も。……コーヒー、淹れるよ」
嘘をつくのは簡単だった。そして、その嘘を彼が疑わないことも、今の二人にとっては「平和」を維持するための唯一の手段だった。
拓真がキッチンで豆を挽く音が響く。かつては、この香りが幸せの同義語だった。今は、処刑台へ向かう前の最後の一杯を待つような、静かな諦念だけが部屋に満ちている。
朝食は、駅で買ったパンと、拓真が淹れたコーヒーだけ。
テレビのニュース番組が、週末の行楽地の賑わいを淡々と伝えている。
「……十一時の新幹線だっけ」
拓真が、カップを持ったまま尋ねた。
「そう。お昼前には東京に着くかな」
「そっか。……ごめんな、今回あんまりどこも連れてってやれなくて。仕事がさ、どうしても……」
「いいよ。顔が見られただけで、十分だから」
口から出た言葉は、自分でも驚くほど滑らかだった。
本当は、叫びたかった。
『仕事なんてどうでもいい。どうして抱きしめてくれなかったの? どうして私の目を見てくれないの? 私たちの二年間は、もう終わったの?』
けれど、言葉は喉の奥で氷の塊になって、飲み込むたびに内臓を傷つけるだけだった。
十時十五分。
荷物をまとめ、紗季はコートを羽織った。
拓真も無造作に上着を掴み、「送るよ」と言った。
駅までの道。仙台の街路樹は、すっかり葉を落とし、鋭い枝先で空を突き刺している。
二人の歩幅は、やはり合わない。
紗季は、自分のキャリーバッグの車輪がアスファルトを削る「ゴロゴロゴロ」という乾いた音だけを聞いていた。その音が、二人の会話のなさを強調するように、冬の空気に響き渡る。
ふと、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
航平からだ。
『おはようございます。仙台、雪降ってますか? 東京はいい天気ですよ。帰ってきたら、あったかいお鍋でも食べに行きましょう。お疲れ様会、勝手に予約しちゃいますね』
その画面を盗み見たわけではないだろうが、拓真が不意に足を止めた。
「……何か、急ぎの連絡?」
「え、あ、ううん。会社の後輩から。ちょっと確認事項があって」
「ふーん」
拓真の返事には、嫉妬の欠片もなかった。ただ、会話を繋ぐための相槌。
もしここで、「男の人からだよ」と言ったら、彼はどんな顔をするだろう。
怒るだろうか。それとも、安堵するだろうか。
『ちょうどよかった。俺の代わりを見つけてくれ』と、心の中で思うのだろうか。
そう思うと、紗季の胸にどす黒い感情が渦巻いた。
自分を急かさず、ただ寄り添ってくれる航平。
彼といるときの自分は、もっと呼吸がしやすかったはずだ。
なのに、どうして私は、この冷え切った男の背中を、縋るように追いかけているのだろう。
仙台駅のコンコースは、家族連れやカップルで溢れかえっていた。
新幹線の改札口が近づく。
この数メートルが、今の二人にとっての「執行猶予」の終わりだった。
「じゃあ、ここで」
拓真が足を止めた。
改札の手前。人混みの中で、二人は向き合う。
「……次は、どうする? 来月、私……」
紗季の言葉を遮るように、拓真が言った。
「あー、来月な。ちょっと出張が入るかもしれなくてさ。また、LINEするよ」
嘘だ。
彼の目は、泳いでいた。
出張があるかどうかではなく、彼女と会う約束をすること自体が、今の彼には「重荷」になっているのだ。
「……わかった。わかったよ、拓真」
紗季は、無理やり微笑んだ。
その時、拓真が申し訳なさそうに、一度だけ彼女の肩に手を置いた。
厚いコート越しに伝わる、彼の体温。
かつては、その温もりだけで世界が完結していた。
けれど今は、その手が「ごめん」という謝罪と、「もう解放してくれ」という懇願にしか感じられなかった。
「……じゃあね。仕事、頑張って」
「ああ。気をつけてな」
紗季は背を向け、改札に切符を通した。
一度も、振り返らなかった。
振り返れば、彼がほっとした顔で立ち去る姿を見てしまうような気がしたから。
ホームに上がると、すでに新幹線が待機していた。
指定された席に座り、バッグからスマートフォンを取り出す。
航平への返信画面。
『今、仙台を出たよ。お鍋、楽しみにしてる。ありがとう』
送信ボタンを押した瞬間、窓の外の景色がゆっくりと動き出した。
二時間の距離。
けれど、今の彼女にとっては、仙台から東京への距離よりも、昨夜のベッドの中での数センチの隙間の方が、はるかに絶望的で、決定的な断絶だった。
新幹線が加速していく。
紗季は、窓硝子に映る自分の顔を見つめた。
二十八歳。
砂時計の砂は、もう、ほとんど残っていない。
彼女は静かに目を閉じ、込み上げてくる熱いものを、喉の奥に力任せに押し戻した。




