沈黙の熱量、冷めた体温(前半)
第2章:沈黙の熱量、冷めた体温(前半)
仙台駅東口のロータリーは、冬の湿った風が吹き抜けていた。
拓真の歩幅は、以前よりもわずかに広い。紗季はその後ろを、置いていかれないように早足でついていく。
「……最近、仕事はどう?」
沈黙に耐えかねて、紗季は彼の背中に向かって言葉を投げた。
「ああ。普通だよ。プロジェクトが立て込んでて、週末もメールチェックが欠かせないんだ」
拓真は振り返らずに答える。その声には、彼女を気遣う色はなく、ただ「忙しい自分」を正当化するような響きだけが混じっていた。
昼食に入った駅近くの牛タン店でも、空気は重いままでした。
かつてなら「ここ、おいしいね」と顔を見合わせ、彼が自分の皿から一切れ、彼女の皿に分けてくれた。そんな些細な幸福が、今の二人には贅沢品のように感じられる。
拓真は食事中も、テーブルの上に置いたスマートフォンを何度も気にする。画面が光るたびに、彼は眉間に皺を寄せ、慣れた手つきでフリック入力をしていく。
「ごめん、ちょっと仕事の連絡」
その言葉が、二人の間の会話を寸断する免罪符になっていた。
「いいよ、大丈夫」
紗季は無理に作った笑顔で答える。けれど、心の中では航平の顔がふとよぎった。
『仕事も大事ですけど、紗季さんが壊れたら元も子もないですよ』
航平なら、食事中にスマホを触るようなことはしないだろう。いや、もし触れたとしても、「ごめんなさい、これだけ返させてくださいね」と、申し訳なさそうに断りを入れるはずだ。
(どうして今、瀬戸君のことを思い出してるんだろう……)
罪悪感が胸をチクリと刺す。私は今、大好きな彼と一緒にいるのに。
昼食を終え、地下鉄に乗って拓真のマンションへ向かった。
駅から彼の家までの道中、紗季は何度も彼の手を探した。けれど、彼はコートのポケットに両手を突っ込んだまま、前だけを見て歩いている。
かつては、この道さえも短く感じられた。
「もう着いちゃったね」
そう言って、マンションのエントランスで足を止めたあの日々は、もう遠い霧の向こうだ。
「……お邪魔します」
何度も訪れたはずの部屋。けれど、玄関を開けた瞬間に漂ってきたのは、自分の知らない拓真の生活の匂いだった。
部屋は、妙に片付いていた。
以前は紗季が来るとなれば、慌てて掃除した形跡や、彼女のために用意した新しい歯ブラシが誇らしげに置かれていたものだ。
今の部屋には、生活感がない。いや、正確には「紗季を受け入れるための隙間」がない。
「コーヒーでいい?」
拓真がキッチンに立つ。
「あ、うん。ありがとう」
ソファに座り、紗季は部屋を見渡した。
棚に飾られていた二人の写真は、いつの間にか奥に追いやられ、代わりに仕事関係の専門書が並んでいる。
拓真が淹れてくれたコーヒーは、熱くて、苦かった。
二人はテレビをつけた。バラエティ番組の笑い声が、会話のない部屋を埋めていく。
「拓真……」
「ん?」
彼はテレビを観たまま、生返事をする。
「……ううん、なんでもない」
聞きたかった。「私のこと、どう思ってる?」なんて、あまりに青臭くて、あまりに重たい質問。
28歳の女がそれを口にするのは、終わりを告げる引き金になることを、彼女は本能的に知っていた。
夜が深まっていく。
外は雪が降り始めたのか、窓の外が青白く煙っている。
「もう、寝ようか。明日も少し仕事しなきゃいけないし」
拓真はそう言って、寝室へ向かった。
紗季は鼓動が速くなるのを感じた。
久しぶりの夜。
触れ合えば、この不安も消えるかもしれない。言葉で埋められない溝も、体の温もりなら埋められるかもしれない。
そんな淡い期待を抱いて、彼女も寝室へ入った。
けれど、現実は無慈悲だった。
拓真はベッドに入ると、すぐに背中を向けて横になった。
「おやすみ」
それだけだった。
腕を回してくれることも、髪に触れてくれることもない。
同じベッドの中にいるのに、二人の間には、何キロもの荒野が広がっているようだった。
紗季は、彼の背中を見つめた。
広い肩。何度も抱きついた、大好きな背中。
手を伸ばせば届く距離。
けれど、その数センチが、今の彼女には世界の果てよりも遠く感じられた。
(ねえ、どうして……?)
涙が溢れそうになるのを、必死に堪える。
ここで泣いてしまえば、彼を責めることになる。彼を責めれば、この関係は完全に壊れてしまう。
彼女は、音を立てないようにゆっくりと横になった。
暗闇の中で、隣から拓真の規則正しい寝息が聞こえ始める。
彼は、本当に眠っているのだろうか。
それとも、私と同じように、言葉にできない重圧に耐えているのだろうか。
眠れない。
冷え切った足先が、シーツの冷たさを強調する。
ふと、枕元に置いたスマートフォンに手を伸ばしたくなった。
航平からの、何気ないメッセージを読み返したい。
『お疲れ様』
『無理しないでくださいね』
そんな、今の自分を全肯定してくれる優しい言葉を浴びたかった。
けれど、彼女はそれをしなかった。
そんなことをすれば、本当に拓真との愛を諦めてしまうことになるから。
窓の外から、時折、除雪車の遠い音が聞こえてくる。
仙台の夜は深い。
紗季は暗い天井を見つめながら、砂時計の砂が最後の一粒まで落ちていくのを、ただじっと待っているような心地でいた。
夜明けは、まだ遠い。
結局、彼女は一睡もできないまま、青白い朝の光がカーテンの隙間から差し込むのを見届けることになる。
隣にいる愛する人が、自分を抱いてくれない。
その事実が、28歳の彼女の心に、消えない痣を刻み込んでいた。




