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三月の砂時計:届かない声と、隣にある温度  作者: 久遠 睦


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二時間の距離、数センチの隙間(後半)

第1章:二時間の距離、数センチの隙間(後半)


 土曜日の朝。

 東京駅の新幹線ホームは、冬の澄んだ空気と、旅に出る人々の浮き足立った熱気に満ちていた。

 紗季はベージュのロングコートの襟を立て、指定席の列に並んでいた。手元には、拓真が好きだと言っていた有名店の洋菓子。

 これを渡せば、少しは会話のきっかけになるだろうか。そんな健気な自分を、心のどこかで冷めた自分が嘲笑っている。

 新幹線「はやぶさ」が滑り込んできた。

 流線型の車体が冬の陽光を反射して眩しい。

 車内に入り、座席に深く身を沈める。

 窓の外、風景が次第に加速し、東京のビル群が溶けるように後ろへ去っていく。

(二時間。たった二時間なのに)

 物理的な距離は、新幹線が瞬く間に解決してくれる。

 けれど、この二時間の間に広がる、心の溝はどうやって埋めればいいのだろう。

 紗季はスマートフォンを開き、拓真に送った最後のメッセージを見た。

『今、新幹線に乗ったよ。十一時に着くね』

 返信は、一言。

『了解。駅の東口で待ってる』

 かつては「楽しみにしてる」「気をつけて来てね」といった言葉が必ず添えられていた。今や、それは「了解」という記号に成り果ててしまった。

 ふと、隣の席に座っていた若い女性が、友人らしき人物と楽しそうに電話で話しているのが聞こえてきた。

「えー、本当に? 絶対サプライズだよそれ! 羨ましいなぁ」

 その屈託のない声が、今の紗季には凶器のように突き刺さる。

 幸せを信じて疑わない時期。そんな季節が、自分にもあったはずだ。

 仙台駅が近づくにつれ、紗季の鼓動は速くなった。

 喜びではない。それは、テストの結果を待つような、あるいは断罪を待つような、ひどく重苦しい緊張だった。

 十一時。

 新幹線がゆっくりとホームに止まる。

 吐き出す溜息が白く濁る中、紗季は改札を抜けて東口へと向かった。

 エスカレーターを下り、雑踏の中に彼の姿を探す。

 いた。

 グレーのコートを着て、壁に寄りかかりながらスマートフォンを操作している男。

 二ヶ月ぶりに見る拓真の姿。

 以前より少し痩せたように見える。それとも、単に自分が彼の印象を美化していただけなのだろうか。

「拓真」

 声をかけると、彼は顔を上げた。

 一瞬、彼がどんな顔をするのか、紗季は息を止めて見守った。

 喜び? 安堵?

 ……いいえ、彼の顔に浮かんだのは、それらとは違うものだった。

「……ああ。お疲れ。早かったね」

 微かな苦笑い。

 それは、親しい人に向ける笑顔というよりは、あまり親しくない知り合いに偶然会った時の、社交的なそれだった。

「これ、お土産。あのお店のクッキー、好きだったでしょ?」

 差し出した袋を、彼は「ああ、ありがとう」と受け取る。

 手が触れることも、以前のように肩を抱き寄せられることもない。

 二人の間には、見えないガラスの壁が立ちはだかっているようだった。

「お腹、空いた? どっか入るか」

「……うん。拓真の行きたいところでいいよ」

 歩き出した彼の背中を追いかけながら、紗季は必死に涙を堪えていた。

 隣を歩いているのに。

 すぐそこに彼がいるのに。

 二時間の新幹線よりも、今隣にいる彼との「数センチの隙間」の方が、絶望的なほど遠く感じられた。

(ねえ、拓真。あなたは今、何を考えてるの?)

(私のこと、まだ好き?)

(これから先のこと、どうしたいと思ってる?)

 聞きたい言葉は喉のすぐ裏側まで来ているのに、口に出せば、今この瞬間に全てが終わってしまう予感がして、紗季はただ、冷え切った自分の指をコートのポケットの中で強く握りしめた。

 その時、ふと、ポケットの中でスマートフォンが微かに震えた。

 航平からではない。

 けれど、なぜかその振動が、今の紗季にとっては唯一、自分が「ここに存在している」ことを肯定してくれる確かな温度のように感じられた。

 仙台の冬の空は、泣き出しそうなほど青く、そして冷たかった。


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