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三月の砂時計:届かない声と、隣にある温度  作者: 久遠 睦


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キャンセルされた約束(後半)

第7章:キャンセルされた約束(後半)


「……もう無理だと思う」

 拓真の口からこぼれ落ちたその言葉は、冷たいカフェの空気の中に、重たい鉛のように沈殿した。

 紗季は、自分の指先が小刻みに震えていることに気づき、膝の上で強く握りしめた。紙コップの中のコーヒーは、まだ一度も口をつけていないのに、その熱だけが指に伝わってくる。

「どうして……?」

 やっとの思いで絞り出した声は、掠れて、自分のものではないように聞こえた。

「価値観が、変わっちゃったから? それとも、私が何か……嫌なことした?」

 拓真は視線を落としたまま、自分の指で紙コップの縁をなぞっている。その仕草すら、かつて愛おしいと思っていた彼の癖だということが、今の紗季には耐え難い。

「紗季が悪いわけじゃない。本当に。……むしろ、逆なんだ」

 拓真がゆっくりと顔を上げた。その瞳には、紗季が求めていた「愛」の欠片もなく、ただ深い、澱んだような罪悪感だけが湛えられていた。

「紗季はいつだって誠実だった。仙台に何度も通ってくれて、俺が仕事で連絡を返せないときも、責めずに待っててくれた。……でもね、その誠実さが、今の俺には息苦しいんだ」

 息苦しい。

 その言葉が、紗季の胸を深く抉った。

 良かれと思って注いできた愛情。彼を信じ、待ち続けてきた日々。それが、彼にとっては首を絞める鎖に変わっていたというのか。

「紗季、もうすぐ二十九になるだろ。……俺、それを見るのが怖いんだ。俺たちが一緒にいる限り、紗季は俺との『結婚』を待つことになる。でも、今の俺には、それに応える覚悟がない。君の人生の貴重な時間を、俺が奪っているような気がして……会うたびに、申し訳なさで胸がいっぱいになる。君の笑顔を見るのが、辛いんだ」

 それは、あまりにも身勝手な「優しさ」の皮を被った拒絶だった。

 自分が責任を取りたくないから。自分が悪者になりたくないから。「君のため」という大義名分を掲げて、彼は自分自身の逃げ道を確保しようとしている。

「……私の時間は、私が自分で選んであなたに捧げたものよ。勝手に奪われたなんて、言わないで」

 紗季は、声を震わせながら反論した。

「私が二十八だから? 結婚を迫っているように見えたから? ……私はただ、あなたと一緒にいたかっただけ。先のことが不安でも、あなたが隣にいてくれるなら、それでいいと思ってた。……でも、あなたはそうじゃなかったんだね。私と一緒にいる未来よりも、私に対する罪悪感から解放される方を選んだんだ」

 拓真は何も言わなかった。沈黙が、肯定となって部屋に満ちる。

 

 紗季はバッグの中から、あの木製の小箱を取り出した。

 迷い、苦しみながらも新幹線に持ち込んだ、二人の思い出の結晶。彼女はそれを、震える手でテーブルの上に置いた。

「これ、覚えてる? 一年前の誕生日、同じ家で祝えたらいいなって書いてくれたカード。……あの時の拓真は、どこへ行ったの?」

 拓真の視線が箱に注がれた。一瞬、彼の表情が苦痛に歪む。

 けれど、彼はその箱を開けようとはしなかった。

「……ごめん。あの時は、本気だった。でも、今はもう、あの頃の気持ちに戻れないんだ。お互いの向いている方向が、少しずつズレていった。俺は仙台での生活に馴染んで、このままでもいいと思うようになった。でも紗季は東京でバリバリ働いてて、いつか俺が東京に戻るのを待ってる。……その期待に応えられない自分に、もう耐えられないんだ」

 価値観のズレ。方向性の違い。

 そんなありふれた言葉で片付けるには、二人の二年間はあまりに濃密だったはずだ。

 けれど、今の拓真の瞳を見ればわかる。

 彼は、もう戦うことをやめてしまったのだ。

 二人の間に生じた溝を埋める努力よりも、溝をそのままにして、お互いに別の道を歩む「楽さ」を選んだのだ。

「……他に、好きな人ができたんじゃないの?」

 最後に、一番聞きたくなかった問いをぶつけた。

 拓真は一瞬だけ、視線を逸らした。

「……いないよ。誰か別の人がいるから別れるんじゃない。君を愛し続ける自信が、俺の中から消えてしまったんだ。それが、すべてだ」

 愛し続ける自信。

 それは、愛が尽きたことを認めるよりも、残酷な言葉だった。

 

 紗季は、冷めきったコーヒーを見つめた。

 もう、これ以上言葉を重ねても無駄だということが、痛いほど理解できた。

 目の前にいるのは、かつて愛した拓真ではない。

 彼女の未来という「責任」から逃げ出し、自分を守るために盾を構えた、見知らぬ一人の男だ。

 28歳。

 紗季が恐れていた「一人になること」が、今、現実のものとして目の前に立ち塞がっている。

 けれど、不思議なほど、涙は出なかった。

 ただ、心の芯が急速に冷えていくような、透明な虚無感だけがそこにあった。

「……わかった」

 紗季は、静かに立ち上がった。

 テーブルに置かれた思い出の小箱は、そのままにして。

「その箱、……捨てていいよ。もう、私のところには置いておけないから」

「紗季……」

「拓真。……私を呼んで、直接言ってくれたことだけは、感謝するわ。フェードアウトされるよりは、ずっとマシだった」

 それは、彼女に残された最後のプライドだった。

 惨めな姿を見せて、彼に同情されたくない。最後まで、自分らしくありたかった。

 カフェの自動ドアが開き、再び仙台の凍てつく風が吹き込んできた。

 紗季は振り返ることなく、駅へと向かう道を歩き始めた。

(……終わったんだ)

 砂時計の最後の一粒が落ちきり、中身は空っぽになった。

 二時間の新幹線の距離も、既読がつかない不安な夜も、もう、彼女を苦しめることはない。

 

 駅の雑踏に戻ると、自分の影が長く伸びていることに気づいた。

 冬の午後の光。

 彼女はスマートフォンを取り出し、画面を見つめた。

 

 そこには、航平からの通知はなかった。

 けれど、不思議と孤独ではなかった。

 

 紗季は、東京へと戻る新幹線の切符を握りしめた。

 かつては「帰る場所」だった仙台が、今はただの「通過点」に変わっていく。

 

 二十八歳の冬。

 すべてを失ったはずの彼女の心に、ほんのわずかな、けれど確かな風が吹き抜けた。

 それは、誰かのためではなく、自分のために生きることを決めた人間だけが感じる、冷たくて清々しい風だった。

 ホームに滑り込んできた新幹線に乗り込み、彼女は窓側の席に座った。

 景色が加速していく。

 

 さようなら、拓真。

 さようなら、彼を愛していた私。

 

 彼女は静かに目を閉じ、込み上げてきた一滴の涙が、頬を伝って落ちるのを、そのままにした。


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