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三月の砂時計:届かない声と、隣にある温度  作者: 久遠 睦


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キャンセルされた約束(前半)

第7章:キャンセルされた約束(前半)


 仙台駅三階、新幹線改札口。自動改札を抜ける「ピピッ」という乾いた音が、今の紗季には心電図の停止を告げる音のように聞こえた。

 雑踏の中に、見慣れたグレーのウールコートを見つける。拓真だった。

 以前のように改札の目の前で、私の顔を見るなりパッと表情を明るくして待っている彼は、もういない。少し離れた柱の陰に、所在なげに立ち、焦点の合わない瞳で通り過ぎる人々を眺めている。

「……拓真」

 紗季が歩み寄ると、彼はゆっくりと視線を動かした。

 一瞬、彼がどんな顔をするのか、紗季は息を止めて見守った。しかし、そこに浮かんだのは、再会の喜びでも、遅れてきた愛おしさでもなかった。

「……ああ。お疲れ様。寒かっただろ」

 絞り出したようなその声には、隠しようのない疲労と、何かに追い詰められたような陰りがあった。かつて、東京駅のホームで彼を見つけるたびに感じていた「ここが私の居場所だ」という確信。それは今の彼の佇まいからは、砂のように指の間からこぼれ落ち、跡形もなく消えていた。

「ううん、大丈夫。新幹線の中、暖かかったし」

「そうか。……行こうか」

 彼は紗季のキャリーバッグを、持とうとはしなかった。

 以前なら、当然のように手を伸ばし、「重いから俺が持つよ」と笑ってくれたのに。今の彼は、まるで紗季の私物に触れることさえ、自分のパーソナルな領域に彼女を招き入れることのように感じて、本能的に拒んでいるようだった。

 二人は無言のまま、駅の中を歩き出した。

 仙台駅の賑わいは、今の二人にとってはあまりにも残酷なBGMだ。楽しそうにお土産を選ぶカップル、再会を祝してハグをする友人同士。その中を、二時間の距離を越えて再会したはずの二人が、まるで見ず知らずの他人のように、数センチの隙間を空けて歩いている。

 拓真が向かったのは、以前二人でよく行った駅前のイタリアンでも、お気に入りだった路地裏のカフェでもなかった。

 駅から少し離れた、どこにでもある、殺風景なチェーン店のカフェだった。

(……どうして、ここなの?)

 紗季は、声に出せない問いを飲み込んだ。

 思い出の詰まった場所に行けば、心が揺らいでしまうから。情に流されることなく、用件だけを淡々と済ませて立ち去れる、匿名性の高い場所。

 拓真がこの場所を選んだ理由が、痛いほど伝わってきて、彼女は眩暈を覚えた。

 カフェの自動ドアが開くと、コーヒー豆の香りと、店内に流れる無機質なジャズが迎えてくれた。

 拓真は隅の、人目につきにくい小さな丸テーブルを選んだ。

「俺、買ってくるよ。……いつものでいい?」

「……うん。お願い」

 拓真がカウンターに並ぶ背中を見つめながら、紗季はバッグの中に忍ばせた、あの思い出の木箱の重みを確かめた。

 拓真は今、何を考えているのだろう。

 彼が私との間に築き上げた、見えないけれど強固な「壁」。

 それは、必ずしも「他に好きな人ができた」といった、分かりやすい裏切りだけではないことを、紗季は予感していた。

 二十八歳という私の年齢が突きつける、重たい「未来」。

 会うたびに結婚の話題を避け、将来の話をはぐらかし続ける自分への罪悪感。彼女が仙台に来るたびに、「何かを決断しなければならない」という無言のプレッシャーに、彼は押しつぶされそうになっていたのではないか。

 紗季の誠実さが、彼女の献身が、今の彼にとっては「自分を縛る重荷」にしか見えなくなっていた。

 

 彼女を愛していないわけではない。けれど、彼女が期待する「責任」を負う自信が、今の彼には微塵もなかった。

 その情けなさと向き合うのが辛くて、彼は彼女を無視し、心を閉ざすことで、自分自身を守ろうとしたのだ。

 今日、彼が彼女をわざわざ仙台まで呼んだ理由。

 それは、フェードアウトして逃げる卑怯さを捨てきれなかった自分への、彼なりの「最後のけじめ」のつもりなのだろう。二年間を捧げてくれた彼女を、これ以上宙ぶらりんにしておくことは、今の自分に残された微かな良心が許さなかった。

「……待たせたね」

 拓真が、二つの紙コップを手に戻ってきた。

 テーブルに置かれたコーヒーは、湯気を立てている。

 拓真は椅子に座り、一度も紗季と目を合わせないまま、自分のコップの蓋を外した。

「紗季……。忙しいのに、来てくれてありがとう」

 その声の震えを、紗季は見逃さなかった。

 彼だって、平気なわけではないのだ。

 二年間、愛し合ったことは事実だ。彼女を幸せにしたいと、新幹線のホームで誓った夜も、確かにあったのだから。

「ううん。……拓真も、忙しいのに時間作ってくれて、ありがとう」

 紗季は、努めて穏やかな声を出した。

 航平の言葉が、脳裏をよぎる。

『笑って仕事をしてほしいっていうのは、僕の本音です』

 今の自分は、笑えているだろうか。それとも、泣くのを堪えるために、ひどい顔をしているだろうか。

 

 拓真は、ゆっくりとコーヒーを一口飲んだ。

 そして、意を決したように顔を上げ、ようやく紗季の瞳を真っ直ぐに見つめた。

「紗季。……俺たち、もう無理だと思うんだ」

 心臓が、一度だけ大きく、鋭く跳ねた。

 分かっていた。

 分かっていたはずなのに、彼の口から放たれたその言葉は、冷たい刃となって、彼女の心臓を正確に貫いた。

「……どうして? 価値観が、変わっちゃったから?」

 紗季の声は、自分でも驚くほど乾いていた。

 拓真は、視線を再び落とした。

 彼が語り始める、「壁」ができた本当の理由。

 それは、紗季が想像していたよりも、ずっと残酷で、切実なものだった。

 

 砂時計の最後の一粒が、ついに、落ちた。


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