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三月の砂時計:届かない声と、隣にある温度  作者: 久遠 睦


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揺らぐ天秤(後半)

第6章:揺らぐ天秤(後半)


 玄関のドアノブを握ったまま、紗季の視線はスマートフォンの画面に釘付けになっていた。

 通知の主は、拓真ではなかった。

『瀬戸 航平:今日は一段と冷え込みますね。もし、帰りにどこかで温かいお茶でも飲みたくなったら、いつでも連絡ください。……気をつけて、行ってきてくださいね』

 紗季は、肺の中の空気をすべて吐き出すような溜息をついた。

 彼は、知っているのだ。今日、私がどこへ、何をしに行くのかを。私が「残業」や「酔い」という稚拙な嘘で隠し続けてきた、ボロボロの結末を。

 彼は決して「行かないで」とは言わない。代わりに、「帰る場所がある」という事実を、祈りのように差し出してくれる。

 その優しさが、今の紗季にはあまりにも痛かった。

 

(私は、こんなにたくさんの温度をもらっているのに……)

 航平の体温を振り払うようにして、彼女はドアを開けた。外の冷気が一気に流れ込み、厚塗りした化粧の下の肌を刺した。彼女は逃げるようにエレベーターに乗り込み、地下鉄を乗り継いで東京駅へと向かった。

 午前十時十五分。東京駅のコンコースは、週末の解放感に満ちた人々で溢れかえっていた。

 大きなリュックを背負った家族連れ、手を繋いで笑い合う大学生のカップル、出張帰りの疲れたビジネスマン。その雑踏の中で、キャリーバッグを引く自分の出す「ゴロゴロ」という音だけが、ひどく場違いな、断罪の音のように聞こえる。

 改札を通る時、手に持ったSuicaが震えた。いや、震えていたのは彼女の指先だった。

 十番線ホーム。「はやぶさ」の鋭い先頭車両が滑り込んでくる。かつては、この車両を見るだけで胸が高鳴った。二時間の距離を魔法のように縮めてくれる、希望の乗り物だったはずだ。

 今の彼女にとって、それは自分を「終わり」へと運ぶ処刑台の護送車にしか見えなかった。

 指定された窓側の席に座る。

 コートを脱ぐ余裕もなく、彼女は深く座席に身を沈めた。

 定刻。新幹線は音もなく動き出した。

 ホームで見送る人々がゆっくりと後ろへ去っていく。その中に、航平の姿を探してしまう自分がいた。いるはずがないのに。そして、隣に座るはずのない拓真の幻影を、無意識に追い求めている自分もいた。

 景色が加速し、ビル群が溶けていく。

 紗季は、バッグの中に押し込んだ、あの思い出の詰まった木箱の感触を、膝の上から確かめた。

(ねえ、拓真。私たちはどこで間違えたの?)

 思考は、答えのない螺旋を降りていく。

 二年前の冬。仙台のアーケードの下で食べた、湯気の立つ肉まん。

 一年半前の夏。松島の海を見ながら、「いつかここに住めたらいいね」と笑った昼下がり。

 あの時の言葉たちは、どこへ消えたのだろう。砂時計の砂のように、ただ底に積もって、もう二度と上には戻らないのだろうか。

 ふと、窓硝子に映る自分の顔を見た。

 28歳。

 仕事でも中堅として期待され、後輩もでき、一人で生きていくための術は少しずつ身につけてきた。けれど、恋に関しては、どうしてこれほどまでに無力なのだろう。

 別れるのが怖い。それは、彼を愛しているからなのか、それとも「愛されている自分」を失うのが怖いからなのか。

 もし今日、拓真が「別れよう」と言ったら。

 私は「はい」と言えるだろうか。それとも、あの木箱の中の思い出を彼の前にぶちまけて、「こんなに幸せだったじゃない」と、腐りかけた愛に縋り付いて泣き叫ぶのだろうか。

(……そんなの、見苦しいよね)

 でも、28歳の女にとって、二年間という月日は単なる数字ではない。それは、出産や結婚といった、タイムリミットのある未来を削って捧げた、血の滲むような投資なのだ。それを「なかったこと」にされる痛みを、男である彼は理解しているのだろうか。

 新幹線は、大宮を過ぎ、関東平野を時速320キロで駆け抜けていく。

 車内販売のワゴンが通り過ぎ、コーヒーの香りが漂う。

 隣の席に座った中年の女性が、文庫本を穏やかな顔で読んでいる。その平穏な日常が、今の紗季には別世界の出来事のように思えた。

 ふと、スマートフォンが膝の上で震えた。

 心臓が口から飛び出しそうになる。

 拓真からだ。

『今、どこ? 仙台駅に着いたら、三階の新幹線改札の前で待ってる』

 事務的な、あまりにも事務的な一文。

 「気をつけて」も「楽しみにしてる」もない。

 

 紗季は、返信を打とうとして、指が止まった。

 何を返せばいい? 「了解」? 「もうすぐ着くよ」?

 どんな言葉を打っても、今の二人の間にある冷たい空気は変わらない。

 

 彼女は、何も返さずに画面を消した。

 そして、目を閉じた。

 

 瞼の裏に浮かぶのは、航平の顔だった。

 『笑って仕事をしてほしいっていうのは、僕の本音です』

 彼の言葉が、冷え切った彼女の心に、小さな火を灯す。

 

 私は、笑いたい。

 誰かの顔色を伺って、既読がつかない画面に怯えて、夜通し泣き明かすような日々から、本当は抜け出したい。

 でも、その「出口」への扉を開けるには、拓真という過去を、自分の手で葬り去らなければならない。

 その重みに、まだ膝が震える。

 新幹線が、減速を始めた。

 トンネルを抜けるたびに、景色の白さが増していく。

 「まもなく、仙台、仙台です」

 無機質な車内アナウンスが、終わりの始まりを告げる。

 紗季は、ゆっくりと立ち上がった。

 キャリーバッグを引き出し、コートのボタンを一番上まで留める。

 

 ホームに降り立つと、そこには東京とは違う、肌を刺すような鋭い寒さが待っていた。

 吐き出す息が、真っ白に濁る。

 

 彼女は、三階の改札へと向かうエスカレーターに乗った。

 一段、一段。

 運命の場所へと運ばれていく。

 

 改札の向こう。

 雑踏の中に、見覚えのあるグレーのコートを見つけた。

 拓真だ。

 

 彼は、スマートフォンをいじることもなく、ただ一点を見つめて立っていた。

 その顔は、以前よりもずっと険しく、そして哀しそうに見えた。

 

 紗季は、キャリーバッグを握りしめ、最後の一歩を踏み出した。

 

 砂時計の砂は、もう、落ちる場所を失っていた。


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