揺らぐ天秤(中半)
第6章:揺らぐ天秤(中半)
土曜日の午前八時。冬の低い太陽が、遮光カーテンの隙間から細いナイフのように部屋を貫いていた。
紗季は、ベッドの上で死んだように横たわっていた。意識はある。けれど、体を起こすための理由が見つからない。今日という日が、自分の人生のどのページに分類されるのか。あるいは、今日でその本自体が閉じてしまうのではないか。そんな恐怖が、鉛のように四肢を重くしていた。
昨日から一度も開いていないキャリーバッグが、部屋の隅で口を開けて待っている。
行かなければならない。拓真が「直接話したい」と言ったのだ。逃げれば、この二年間は永遠に「未完の悲劇」として彼女の中に残り続けるだろう。
重い腰を上げ、準備のためにクローゼットの奥を漁ったときだった。
指先に、硬い箱の感触が触れた。
「……あ」
引きずり出したのは、以前二人で旅行した時に、拓真が冗談半分で「思い出ボックスにしよう」と言って買った、木製の小箱だった。蓋を開けると、そこには今の紗季を粉々に砕くには十分すぎるほどの、輝かしい「過去」が詰まっていた。
一番上にあったのは、一年前の誕生日に彼からもらった手書きのメッセージカードだ。
『紗季へ。遠くにいても、俺の心はいつも君の隣にあるよ。来年の誕生日は、同じ家で祝えていたらいいな。大好きだよ』
その文字を目にした瞬間、紗季の視界が歪んだ。
あの時の彼は、確かに本気だった。あの言葉に嘘はなかったはずだ。なのに、どうして。どうして今の彼は、一晩中既読もつけず、私をこんなにも惨めな気持ちにさせる冷たい「記号」に成り下がってしまったのか。
箱の底には、初めて二人で仙台に行った時の新幹線のチケットの半券や、お揃いで買ったキーホルダーが、色褪せることなく横たわっている。
それらを手に取るたび、紗季の胸には鋭い痛みが走る。
(別れ話なら、私は立ち直れないだろう……)
この小箱に詰まっているような幸せを、また他の誰かと一から作り直すなんて、今の自分には到底不可能に思えた。28歳。人生を再構築するには、あまりに疲れ果てていた。
けれど、ふと疑問が脳裏をよぎる。
もし、今日拓真に会って、彼が泣きながら謝ってきたら。
「今まで冷たくしてごめん。仕事に追われて、余裕がなかったんだ。これからは昔みたいに大切にするから」
そう言われたら、私は手放しで喜べるのだろうか。彼の差し出す手を、以前と同じ純粋な気持ちで握り返せるのだろうか。
今の拓真は、彼女の知っている「優しい拓真」ではない。
彼女を無視し、彼女を不安に陥れ、彼女の自尊心を削り取った男だ。
(私は、今の拓真が好きなの? それとも……「彼を好きだった自分」という呪縛に取り憑かれているだけなの?)
一度失った信頼は、謝罪一つで元に戻るものではない。
彼が優しくなればなるほど、私は「どうしてあの時、あんなに私を苦しめたの?」と、消えない傷跡をなぞってしまうのではないか。その憎しみを抱えたまま、私は彼を愛し続けられるのだろうか。
気がつけば、時計の針は九時を回っていた。
東京駅十時三十分発の新幹線。
時間は、無慈悲に迫ってくる。
ふと、デスクの上に置いたままのスマートフォンが目に入った。
昨日、航平からの連絡を断ってから、彼からは何の音沙汰もない。
彼は今頃、何をしているだろう。
職場で彼が見せてくれる、あの静かな眼差し。
彼は、私が拓真のことで苦しんでいるのを知りながら、決して「別れろ」とは言わなかった。ただ、「あなたが幸せを選ぶ時を待っている」と言った。
航平の優しさは、今の紗季にとって「正解」の形をしていた。
けれど、今の自分には、その正解を選ぶ勇気がない。
(私は本当は、どうしたいの……?)
拓真とやり直したい?
それとも、すべてを終わらせて、誰かに、……航平に抱きしめられたい?
答えは出ない。
ただ、箱の中の思い出たちが「私たちを見捨てないで」と叫んでいるような気がして、紗季はそれを無理やりバッグに詰め込んだ。
鏡の前で、無理やり化粧を厚く塗り重ねる。
クマを隠し、震える唇に紅を差し、鎧を着込むようにコートを羽織る。
九時三十分。
家を出なければならない時間だ。
紗季は、ガランとしたワンルームを見渡した。
ここに戻ってくる時、私はどんな顔をしているだろう。
玄関で靴を履き、ドアノブに手をかけたその時、スマートフォンが短く震えた。
拓真か。それとも――。
画面に表示されたのは、意外な名前だった。
紗季は、その通知を目にしたまま、動けなくなった。
外では、冬の冷たい風が吹き荒れている。
砂時計の最後の一粒が、今、まさに落ちようとしていた。




