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三月の砂時計:届かない声と、隣にある温度  作者: 久遠 睦


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揺らぐ天秤(前半)

第6章:揺らぐ天秤(前半)


 その一文を目にした瞬間、オフィスを包む喧騒が、まるで水中に沈んだかのように遠のいた。

『来週末、ちょっと話せるかな。電話でもいいけど、できれば直接話したい』

 スマートフォンを握る指先から、体温が急速に失われていく。

「直接話したい」。

 それは、二人の関係において「終わり」を告げる時の定型句であり、同時に、この二年間積み上げてきたものを一瞬で灰にするための、最も冷酷な宣告だった。

 紗季は、震える手でスマートフォンをデスクの引き出しに隠した。まるで、見なければその現実が消えてくれるとでもいうように。けれど、網膜に焼き付いた文字は、目を閉じても消えてはくれない。

(「話したい」って、何を? 何の話をするの、拓真……)

 心の中の問いかけは、答えのない迷路へと彼女を誘い込む。

 仕事のメールを打とうとしても、指が動かない。視線が画面上の文字を滑り、意味をなさない記号の羅列に変わっていく。

 

 憶測という名の毒が、じわじわと全身に回っていく。

 別れ話だろうか。やはり、仙台に誰か好きな人ができたのか。それとも、私の「重さ」に耐えかねて、ついに逃げ出す決心を固めたのか。

 ……あるいは。

 ほんのわずかな、砂粒ほどの可能性として、プロポーズの可能性はないだろうか。

「ずっと待たせてごめん。こっちに来てくれないか」

 そんな奇跡のような言葉を期待する自分が、どこかにいる。けれど、昨夜の未読無視や、仙台でのあの冷たい態度を思い返せば、それがどれほど愚かな希望であるかは、誰よりも自分自身がよくわかっていた。

 火曜日、水曜日、木曜日。

 カレンダーの数字が、絞首台への階段のように増えていく。

 紗季は、自分が自分でいられなくなる感覚に陥っていた。

 食事は砂を噛むような味がし、夜は三時間おきに目を覚ます。その度にスマートフォンを手に取り、拓真からの追伸がないかを確認しては、絶望して枕を濡らす。

「紗季さん、その資料、昨日お渡ししたやつですけど……」

 不意に横から声をかけられ、紗季は椅子から落ちそうなほど跳ねた。

 立っていたのは、チームの後輩だ。

「あ、ごめん。……ええと、何だっけ」

「……大丈夫ですか? 顔色、真っ青ですよ。昨日も遅くまで残ってましたよね」

「大丈夫。ちょっと寝不足なだけだから」

 無理に作った笑顔が、引き攣っているのが自分でもわかる。

 その様子を、少し離れた席から航平が見つめていた。

 

 航平は、彼女の異変に気づかないはずがなかった。

 月曜日のあの給湯室での会話の後、紗季が拓真からの連絡を受け、一瞬にして魂が抜けたような顔になったのを見ていたから。

 

 けれど、航平はあえて近づかなかった。

 今、自分が「大丈夫ですか?」と優しく声をかければ、彼女は間違いなく壊れてしまう。無理に張り詰めている糸を、自分の不用意な優しさが切ってしまうことを、彼は本能的に理解していた。

 

 彼はただ、遠くから彼女を見守った。

 彼女がミスをして上司に叱責されそうになれば、さりげなくフォローの資料を差し込み、彼女が昼食も取らずにデスクに噛み付いていれば、彼女が席を立った隙にそっと栄養ドリンクを置いておく。

 決して声をかけず、視線も合わせない。

 それが、今の彼にできる、最大かつ唯一の「愛」の形だった。

 金曜日の夜。

 ついに、運命の週末が幕を開けようとしていた。

 オフィスビルを出ると、冷たい夜風が彼女のコートを揺らす。

 

 東京駅へ向かうべきか。それとも、彼からの電話を待つべきか。

 拓真のメッセージには「できれば直接話したい」とあった。それはつまり、自分が仙台に来ることを期待しているのか、あるいは彼が東京に来るつもりなのか。

 そんな細かい確認さえ、今の紗季には怖くてできなかった。

 ワンルームの自室に帰り、彼女は真っ暗な部屋で一人、膝を抱えた。

 

(ねえ、拓真。どうして直接なの?)

(電話じゃダメなの? 終わらせるなら、もっと早く言ってほしかった。この一週間、私がどんな思いで過ごしたか、あなたは知らないでしょ)

 暗闇の中で、二十八歳の自分という存在が、どこまでも希薄になっていく。

 もし、このまま拓真を失ったら。

 私のこの二年間は何だったのか。私はまた、新しい誰かを探し、一から自分を説明し、未来を繋ごうとしなければならないのか。

 航平の顔が浮かぶ。

 彼の優しさに逃げ込めば、この苦しみから解放されるのだろうか。

 

 ……けれど、それはできない。

 こんなに拓真のことで頭がいっぱいで、ボロボロになっている状態で、航平の真っ直ぐな瞳を見ることはできない。

 それは、自分を愛してくれた過去への裏切りであり、今自分を案じてくれている航平への冒涜だ。

 二十八歳。

 世間では「まだ若い」と言われるけれど、自分にとっては「もう遅い」と感じる年齢。

 選択肢が狭まり、失敗が許されなくなり、誰かの「正解」に合わせて生きることに疲れてしまった。

 

 紗季は、充電器に繋がれたスマートフォンを見つめた。

 通知は――ない。

 

 明日の土曜日。

 私は、どちらに向かって歩き出すのだろう。

 

 彼女は、一度も開かなかったカーテンの隙間から、夜の街を眺めた。

 遠くで光るビルの明かりが、誰かの幸せな生活を象徴しているようで、彼女は静かに、けれど激しく、声を殺して泣いた。

 

 砂時計の最後の一粒。

 それが落ちる瞬間、私はきっと、私ではなくなる。

 

 そんな予感だけが、冷たい部屋の空気に溶けていった。


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