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三月の砂時計:届かない声と、隣にある温度  作者: 久遠 睦


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結婚という名の地雷(後半)

第5章:結婚という名の地雷(後半)


 航平が置いていったコーヒーから立ち上る湯気が、紗季の視界をわずかに白く曇らせた。

「……紗季さんが笑って仕事してる姿、好きなんですけどね」

 耳の奥で、彼の声が何度もリフレインする。それは業務連絡のような平坦なトーンではなく、かといって過剰な甘さを孕んだ誘惑でもなかった。ただ、冬の陽だまりが氷を溶かすような、静かで確かな熱を持っていた。

(……好き? 何が? どういう意味で?)

 マウスを握る指先が、微かに震える。

 28歳の女にとって、「好き」という言葉は20歳の頃ほど単純な響きを持っていない。それは時に責任を伴い、時に打算を孕み、時に重すぎる期待を含んでいる。特に、一歳年下の、しかも前途有望な男性からの言葉となれば、紗季の防衛本能は「そんなはずはない」という警報を鳴らし始めるのだ。

 その時、向かいのデスクの島で、高い笑い声が弾けた。

「瀬戸さーん! このキャッチコピー、どっちがいいと思います? 私的にはこっちのキラキラしてる方なんですけどぉ」

 声を上げたのは、今年入社したばかりの新人の里奈りなだった。二十三歳。透き通るような肌に、流行りのメイク。彼女が動くたびに、オフィスの一角が春になったような錯覚を覚えるほど、彼女は「若さ」という無敵の鎧を纏っていた。

 航平は里奈の方を向き、困ったような、けれど穏やかな笑みを浮かべて答えている。

「里奈ちゃん、仕事中に『キラキラ』は主観すぎるよ。ターゲット層をもう一度考えてみて」

「えー! 厳しいなぁ。でも瀬戸さんに言われたら、頑張れちゃうかも」

 そのやり取りを、紗季は視界の端で見つめていた。

 里奈のような、汚れを知らない真っ直ぐな好意。駆け引きも、遠距離恋愛の疲れも、28歳特有の焦燥感も知らない、軽やかな存在。

 もし、自分が航平の立場なら――。

 もし自分が男で、隣に里奈のような「これから何にでもなれる」輝く存在と、自分のように「古くなった愛を捨てられずにボロボロになっている」年上の女がいたら。

 選ぶのは、迷いなく前者ではないのか。

(普通、そうでしょ……?)

 なぜ、航平はわざわざ、私に構うのだろう。

 他にも魅力的な人はたくさんいる。里奈のように、もっと素直に、もっと可愛らしく彼を頼れる女性はごまんといるはずだ。

 それに比べて、今の自分はどうだ。

 仙台の彼氏からの未読に一喜一憂し、顔色は悪く、心の中は「結婚」という名の、いつ爆発するかわからない地雷で埋め尽くされている。そんな面倒な女に深入りしても、彼にとっては何のメリットもないはずなのに。

 紗季は、席を立って給湯室へ向かった。これ以上デスクに座っていたら、自分の自意識に押しつぶされそうだった。

 給湯室の鏡に映った自分。

 念入りに隠したはずのクマが、蛍光灯の下では浮き上がって見える。

 航平が言った「笑って仕事をしている姿」なんて、もう何ヶ月も前の記憶だ。今の自分は、ただ義務感と、拓真への執着と、一人になることへの恐怖だけで動いている機械のようなものではないか。

(瀬戸君は、私の何を見てるんだろう。……何を見て、あんな言葉を言えるんだろう)

 深掘りすればするほど、焦燥感だけが募っていく。

 彼の優しさは、傷ついた私への同情なのだろうか。それとも、手に入りそうで入らない、年上の女を攻略したいというゲームのような感覚なのだろうか。

 いや、それも違う。

 航平はそんなに浅い人間ではない。それを知っているからこそ、紗季の心はさらに乱れるのだ。

 ふと、背後でドアが開く音がした。

「紗季さん。……やっぱり、ここにいましたね」

 振り返ると、航平がいた。

 彼は給湯室の中に入ってくると、紗季との距離を一定に保ったまま、壁に背を預けた。

「さっきの言葉、変な風に聞こえました?」

 単刀直入な問いに、紗季は言葉に詰まった。

「……別に。瀬戸君は、誰にでも優しいから」

「誰にでも、なんて。僕、そんなに器用じゃないですよ」

 航平は少しだけ視線を下げ、自嘲気味に笑った。

「里奈ちゃんみたいな若い子が、僕を頼ってくれるのは確かに嬉しいです。でもね、紗季さん。僕が惹かれるのは、誰かに甘やかされている姿じゃないんです」

 彼は一歩、距離を詰めた。

「必死に自分の足で立とうとして、ボロボロになっても仕事を投げ出さない。遠くの誰かを想って、自分を律しようとして……そうやって、不器用に戦ってる紗季さんを見てると、放っておけないんです。……笑って仕事をしてほしいっていうのは、僕の本音です。あなたの笑顔には、周りを温める力があるから。それを失ってほしくないだけです」

 紗季は息を呑んだ。

 彼は、見抜いていた。

 自分が誰にも言えずに抱えていた、拓真への誠実さと、その裏側にある限界を。そして、自分がどれほど「笑えなくなっているか」を。

「……瀬戸君。私には、彼がいるのよ。知ってるでしょ」

「知ってます。だから、ずっと待ってるんです。……あなたが、自分の幸せを、自分自身で選ぶ時を」

 彼の瞳には、迷いがなかった。

 里奈が向ける「憧れ」の視線とは違う、もっと深く、根源的な肯定。

 それは、今の紗季にとって、どんな言葉よりも優しく、そしてどんな刃物よりも鋭く彼女の現状を否定するものだった。

(私は、幸せ……なの?)

 拓真を想い続けることが、私の幸せ?

 既読がつかない画面を眺めて泣くことが、私の望んだ28歳?

 

 航平の優しさは、今の紗季にとって「正解」を突きつけられているようなものだった。

 けれど、それを認めることは、拓真との二年間を完全に終わらせることを意味する。

 今の彼女には、まだその一歩を踏み出す勇気がない。

「……コーヒー、ありがとう。冷めちゃうから、戻るね」

 紗季は逃げるように給湯室を後にした。

 自席に戻ると、デスクの上でスマートフォンが光った。

 拓真からだろうか。

 一瞬の期待。けれど、開いた画面に表示されていたのは、やはり拓真ではなく――。

 

 しかし、その直後。

 見慣れた「緑色のアイコン」の上に、赤い数字の「1」が浮かび上がった。

 

 拓真からだ。

 未読のまま朝を迎え、昼を過ぎ、ようやく届いた一通のメッセージ。

 震える指でそれを開いた瞬間、紗季の視界から航平の温もりは一瞬で消え去り、再び冷たい冬の現実へと引き戻された。

『来週末、ちょっと話せるかな。電話でもいいけど、できれば直接話したい』

 「好き」でも「会いたい」でもない。

 事務的な、そしてあまりにも明確な、終焉の予感。

 紗季は、キーボードの上に置いた自分の手が、氷のように冷たくなっていることに気づいた。

 すぐそばにある、航平が淹れてくれたコーヒーの熱。

 遠くから届いた、拓真の冷徹な宣告。

 

 28歳の冬。砂時計の砂は、ついに最後の一粒が、音もなく滑り落ちようとしていた。


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