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三月の砂時計:届かない声と、隣にある温度  作者: 久遠 睦


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二時間の距離、数センチの隙間(前半)

第1章:二時間の距離、数センチの隙間(前半)


 午後九時。オフィスビルの窓ガラスは、夜の闇を吸い込んで巨大な鏡へと姿を変えていた。

 映り込んでいるのは、蛍光灯の白い光に照らされた、血色の悪い自分の顔だ。佐藤紗季、二十八歳。広告代理店の制作進行として働き始めて六年。目の前のモニターには、修正指示が赤字で書き込まれたバナー広告のラフ案が並んでいる。

「……はぁ」

 無意識に漏れた溜息が、デスクに置いたスマートフォンの画面をわずかに曇らせた。

 紗季は祈るような気持ちで、電源ボタンを押す。ロック画面に表示されているのは、時刻と、いくつかのアプリの通知。期待していた「緑色のアイコン」からの通知は、そこにはなかった。

 最後に拓真たくまとやり取りをしたのは、昨日の朝だ。

『おはよう。今日も忙しい?』

 自分から送ったそのメッセージには、三時間後に既読がついた。しかし、返信が来たのはさらにその五時間後。

『ああ。バタバタしてる。また夜に』

 その「夜」は、結局訪れなかった。


 二十八歳の冬。かつては、この程度のことで動揺したりはしなかった。付き合い始めた二年前なら、「仕事が大変なんだな」と素直に受け止め、彼を労うスタンプの一つも送れたはずだ。

 新幹線で二時間。東京と仙台。

 その距離を埋めるのは、いつだって溢れるほどの言葉だった。ビデオ通話越しに乾杯し、寝落ちするまで繋ぎっぱなしにした夜。駅のホームで引き剥がされるように別れるとき、「次はいつ会える?」と、どちらからともなく確認し合ったあの熱量。

 それらは今、どこへ消えてしまったのだろう。

「……紗季さん、お疲れ様です。まだ、かかりそうですか?」

 不意に背後から声をかけられ、紗季の肩が小さく跳ねた。

 振り返ると、そこには一歳年下の後輩、瀬戸航平せと・こうへいが立っていた。手にはコンビニの袋。少しだけハネた髪と、穏やかな垂れ目が、殺伐としたオフィスの中でそこだけ柔らかな空気を纏っている。

「あ、瀬戸君。お疲れ様。うーん、あと一時間……いや、一時間半ってところかな」

「無理しすぎですよ。顔、真っ白ですよ」

 航平はそう言って、袋の中から温かいほうじ茶のペットボトルを取り出し、紗季のデスクの端にそっと置いた。

「これ、よかったら。差し入れです。……あ、もちろん、下心とかじゃないんで。先輩が倒れたら僕が困るっていう、極めて利己的な理由です」

 彼はそう言って、いたずらっぽく笑う。

 航平はいつもそうだ。紗季が追い詰められているとき、あるいは一人で孤独の穴に落ちそうになっているとき、絶妙な距離感で現れる。

 半年ほど前からだろうか。彼がこうして、言葉にならない気遣いを見せてくれるようになったのは。

 食事に誘われることも何度かあった。

『近くにおいしいビストロができたんですけど、良かったら一緒にどうですか?』

『仕事の相談に乗ってほしいんです』

 その度に、紗季は丁重に、けれど明確に断ってきた。

「ごめんね、今日は先約があって」

「遠距離の彼と、電話する約束なんだ」

 それは、自分自身への戒めでもあった。

 拓真と会えない時間を、他の男性で埋めてはいけない。それは自分たちの関係に対する不誠実であり、何より、拓真を信じている自分を裏切ることになる。

 けれど、最近はどうだろう。

「先約があるから」と断るその「先約」――拓真との電話やLINEが、もはや空虚な約束になりつつあることを、紗季は認められずにいた。

「ありがとう、瀬戸君。いただきます」

「はい。……あの、紗季さん」

「ん?」

「……いえ、なんでもないです。お先に失礼します。あまり遅くならないうちに帰ってくださいね」

 航平は何かを言いかけて飲み込み、浅くお辞儀をして去っていった。

 彼の背中を見送りながら、紗季はほうじ茶の温かさを両手で受け止める。

 瀬戸君は、優しい。

 その優しさは、今の紗季にとって、冷え切った指先に触れるぬるま湯のように、心地よく、そして少しだけ痛かった。

 デスクに戻り、再びスマートフォンを見る。

 やはり、通知はない。

 不意に、不安が黒い霧のように胸の奥に広がっていく。

 私たちは、どうしてこうなってしまったのだろう。

 毎月、どちらかが新幹線に乗って会いに行く。そのルールはまだ死んでいない。けれど、先月の仙台行きの新幹線の中で、紗季はかつて感じたことのない違和感を覚えていた。

 駅の改札まで迎えに来てくれた拓真は、以前のように真っ先に自分を抱きしめることはしなかった。

「あ、来たね。お疲れ」

 軽い挨拶。歩き出す彼の背中は、どこか遠い。

 彼のマンションについても、会話は弾まなかった。テレビの音だけが虚しく響き、紗季が仕事の話をしても、彼は「へえ」「大変だね」と、視線をスマートフォンに向けたまま空返事をするだけ。

 かつては、二人の将来について語り明かした。

「三十歳までには、一緒に住みたいね」

「東京に異動願い、出してみるよ」

 そんな夢のような言葉たちは、今や砂時計の底に沈み、二度と浮き上がってこない。

 結婚。

 二十八歳という年齢は、その二文字が嫌でも耳に入ってくる時期だ。

 地元の友人は次々と式を挙げ、SNSを開けば「ご報告」の文字が並ぶ。

 拓真はどう思っているのだろう。

 私のことを、まだ「結婚を前提にした恋人」として見ているのだろうか。

 それとも、ただの「断りづらい、惰性の関係」になってしまったのだろうか。

 聞きたい。けれど、聞くのが怖い。

 もしも「そんなこと考えられない」と言われたら。

 もしも「少し距離を置こう」と言われたら。

 この二年間積み上げてきたものが、音を立てて崩れてしまう。

 紗季は、冷め始めたほうじ茶を一口飲んだ。

 味はよくわからない。

 ただ、喉の奥がキュッと締まるような感覚だけが残った。

 ふと、モニターの横に貼られた付箋に目が止まる。

 来週末の予定。そこには「仙台」とだけ書かれている。

 一週間後。私は彼に会いに行く。

 その時、私はどんな顔をして彼の前に立てばいいのだろう。

 そして彼は、私を見て笑ってくれるのだろうか。

 窓の外、夜の街は眩しいほどの光を放っている。

 その光の数だけ、誰かと誰かが寄り添い、温もりを分かち合っているのだろう。

 なのに、今の自分は、これほどまでに近くにいる航平の優しさを撥ね退け、二時間離れた場所にいる、心の温度もわからない男を待ち続けている。

 スマートフォンの画面を指でなぞる。

 まだ、拓真のアイコンは沈黙したままだ。

 紗季は、深く、深く、吐き出すように息をついた。

 二十八歳の冬。

 止まったままの砂時計を、もう一度ひっくり返す勇気も、壊して新しい時計を買う勇気も、今の彼女にはまだ、なかった。


 航平が去った後のオフィスは、再び空調の唸るような音と、数台のサーバーが発する微かな低周波に包まれた。

 紗季はデスクに置かれたほうじ茶を、もう一度手に取った。ペットボトルの表面には、彼の指先が触れていたであろう微かなぬるみが残っている。

(……どうして、あんなに普通に笑えるんだろう)

 航平が自分に好意を寄せていることは、鈍感な紗季でも気づいていた。けれど、彼は決してその想いを武器にはしない。強引に食事に誘うことも、恋人との仲を邪推して踏み込むこともしない。ただ、紗季が一人で戦っているときに、そっと背中をさするような優しさを置くだけだ。

 それが、今の紗季にはたまらなく苦しい。

 時計の針は十時を回った。

 ようやく修正作業を終え、サーバーにデータをアップロードする。重たい肩を回しながら、紗季はコートを羽織った。バッグの中で、またスマートフォンが震える。

 今度こそ――。

 弾かれたように画面を確認する。しかし、そこに並んでいたのは母からのLINEだった。

『お疲れ様。今週末は仙台だっけ? 拓真さん、元気にしてる? あんまり無理しちゃダメよ。そろそろ、二人で将来のことも話し合いなさいね』

 母親という生き物は、どうしてこうもタイミングよく、最も触れられたくない場所に指を刺してくるのだろう。

 紗季は返信を打つ気力を失い、スマートフォンをバッグの奥底へ沈めた。

 オフィスビルを出ると、冷たい夜風が容赦なく頬を叩いた。

 駅へ向かう道すがら、街灯の下で身を寄せ合う若いカップルとすれ違う。男性のダウンジャケットのポケットに、女性が当然のように手を滑り込ませて笑っている。

 二年前の冬。自分たちも、あんな風だった。

 東京駅の新幹線ホーム。別れ際の一分一秒が惜しくて、発車メロディが鳴るまで手を繋いでいた。

「次は僕が行くから」

「ううん、私が会いに行く。一週間が、一年みたいに長く感じるね」

 あの時の言葉には、嘘はなかったはずだ。

 地下鉄のホームで電車を待つ間、紗季はふと、駅の掲示板に貼られた不動産広告に目をやった。

『一人暮らしも、二人暮らしも。あなたの理想の住まいを』

 二十八歳。

 仕事にも慣れ、中堅としての責任が増してくる一方で、周囲の環境は目まぐるしく変わる。結婚、出産、家を買う――そんな「人生のステップ」という名のチェックリストが、背後から音もなく迫ってくるような感覚。

 拓真との二年間。自分は彼と一緒に、そのリストにチェックを入れていけると信じていた。

 けれど、今の二人の間にあるのは、共有する未来ではなく、ただ「過去の記憶」という名の貯金を少しずつ切り崩しながら繋いでいる、薄氷のような現在だけだ。

 ガタゴトと揺れる電車の中で、紗季はもう一度だけスマートフォンを取り出した。

 拓真の連絡先を表示し、発信ボタンに指をかける。

 声が聞きたかった。一言だけでもいい。明日も頑張れるような、体温のある言葉が欲しかった。

 ……けれど。

(もし今、彼が面倒くさそうな声を出したら?)

(「また後で」と冷たく切られたら?)

 想像するだけで、胸の奥が冷たく縮こまる。

 結局、彼女はボタンを押せぬまま、画面を消した。

 夜十一時。

 ワンルームの自室に辿り着き、明かりをつける。

 静まり返った部屋。脱ぎ捨てたストッキングの感触。

 紗季はメイクも落とさず、ベッドに倒れ込んだ。

 その時、小さな通知音が響いた。

 心臓が跳ねる。急いで画面を見ると、拓真ではなく、航平からだった。

『無事に家に着きましたか? ほうじ茶、ちょっと温すぎたかなって反省してます。明日は晴れるみたいですよ。おやすみなさい』

 ただの、なんてことのない日常の報告。

 けれど、その一言が、今の紗季には砂漠で見つけた水のように染み込んだ。

 彼には「今週末、仙台に行く」なんて言えない。

 彼には「恋人に無視されて泣きそう」だなんて、口が裂けても言えない。

 航平の優しさに触れれば触れるほど、自分の惨めさが浮き彫りになるから。

 紗季は、天井を見つめた。

 週末の仙台。

 そこに行けば、何かが変わるのだろうか。

 それとも、この砂時計の最後の一粒が落ちるのを見届けるだけになるのだろうか。

 重たい瞼を閉じると、航平の穏やかな笑顔と、遠くで背中を向けている拓真の幻影が、交互に浮かんでは消えた


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