第84話 星の標
帝国/皇城 内診室
メディカは、皇帝セヴェルスの脈を取っていた。
皇帝のための診療室は、皇城の奥にある。
ここでだけ、メディカは政治ではなく、
医療の顔で皇帝に近づける。
定期診断。
その名で許された、短い距離だった。
「王国の救護所で、
召喚者らしき患者が出たそうですね」
セヴェルスは答えない。
答えないまま、指先だけが膝の上で止まった。
知っている。
それで十分だった。
「医局から人を出します」
「治療のためです。記録のためでもあります」
セヴェルスが、ようやく目を上げる。
「よい」
許可は、それだけだった。
人選は問われなかった。
侍医長の判断に任された、ということだ。
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帝国/皇城 医局(夜明け前)
アルカは器具箱の蓋を閉めたところだった。
医療器具は必要最小限。
扉が叩かれる。
「どうぞ」
入ってきたのは侍医長メディカだった。
白衣は黒に近い。袖口の刺繍は皇帝のもの。
「準備は整いましたか?」
「はい。必要なものだけに絞りました」
メディカは机に紙を置いた。
出張命令。
侍医長印と、皇帝の裁可印。
その下に、枢密院の補助印が添えられている。
アルカは紙面を見た。
「……皇帝陛下の裁可まで」
「定期診断の席で、許可を取りました」
メディカは淡々と言った。
淡々としているからこそ、
無理を通したことが分かる。
「王国の救護所で、召喚者らしき患者が出ています」
「すでに帝国側の確認は入っています。
次は、正式な立会いになります」
アルカの指が、器具箱の留め具に触れる。
「その前に、医療記録を置くのですね」
「ええ」
メディカは頷いた。
「“触れれば悪化する”」
「それを医療判断として残してください」
アルカは頷いた。
「……姉上は、動かれませんか」
メディカは首を振る。
「私は動けません。前にも言ったとおりです」
「それに私が王国へ出れば、
医療ではなく政治になります」
「あなたが行くのが最短です」
アルカは鍵札を見た。
「移動は……大使館ですか」
「はい。儀礼室の緊急搬送を開けられる鍵です」
「使った痕は残ります。だから、余計な言葉と
余計な足を増やさないでください」
「承知しました」
メディカは一拍置いて言う。
「もう一つ。あなたは今、反乱因子に近い扱いです」
「狙われます。狙いはあなた本人ではなく、
あなたが王国で作る記録かもしれません」
アルカは短く息を吐いた。
「記録が残れば、消せない」
「その通りです」
そこで、扉が軽く叩かれた。
「入っていい?」
明るい声。帝都魔導士協会会長セレナだ。
「失礼します、侍医長閣下」
「……アルカ、王国へ行くんだよね」
メディカは視線を上げる。
「会長セレナ。同行は推奨しません。目立ちます」
セレナは笑って、しかし引かない。
「目立つのは王都に着いてからでいい」
「道中が危ないなら、私がいた方がいい。
護衛としても、現場を見る役としても」
メディカはアルカを見る。
止める目ではない。判断させる目だ。
アルカが答える。
「……同行して。
セレナがいれば、相手は“雑に殴れない”」
メディカは一度だけ目を閉じた。
「分かりました。随行許可を切ります」
「ただし、あなた方は“医療支援”の範囲を
越えないでください」
セレナが軽く手を上げる。
「了解。口は増やさない。手だけ動かす」
メディカは最後にアルカへ。
「向こうで見たことは、
ここへ言葉で戻さないでください」
「戻すなら、記録で戻してください」
「はい、姉上」
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帝国/帝都・王国大使館 儀礼室
儀礼室の床に刻まれた転送陣は、
発動していないと模様にしか見えない。
軍のための陣ではない。
大使館同士を結ぶ、緊急儀礼のための細い道だ。
病人、使節、親書、遺体。
戦争にしないため、
表の手順で運ぶしかないものだけが通る。
鍵札だけでは開かない。
大使館員の立会いが要る。
そして、使えば必ず記録が残る。
だから監察府も、普段は使わない。
使った瞬間、それは外交になる。
鍵札が縁に置かれた瞬間、
陣の縁だけが淡く光った。
大使館員が低く言う。
「王国側、帝国大使館の裏門へ繋ぎます。
移送は一度。戻りは別手順です」
アルカが頷く。セレナは小さく息を吐いた。
「……正しすぎて嫌い。こういうの」
「今は正しさが盾になる」
アルカが言うと、セレナは笑いを作らずに頷いた。
光は眩しくない。
誰かの目を引くほどの明るさではなかった。
二人は踏み出した。
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王国/王都 帝国大使館・裏門
空気が違う。帝都ほど硬くない。
けれど柔らかい分だけ、人の目が多い。
裏門に馬車が一台、待っていた。
王国の紋はない。
帝国の紋も、表には出していない。
外交施設の中立の形だ。
御者が頭を下げる。
「救護所まで、最短で」
走り出してすぐ、セレナが窓の外へ視線を置いた。
「……付いてる」
「見えた?」
「見えない。見えないけど、距離が変わらない」
御者が声を落とす。
「追跡でしょうか」
アルカが即答する。
「止めないでください。
止まった時点で、こちらが“待った”形になります」
馬車が角を曲がった瞬間、車輪が一度だけ跳ねた。
石ではない。仕掛けだ。
御者が立て直す。
次いで、左右の路地から影が出る。
顔を隠し、動きは揃っている。
セレナが低く言った。
「……もう嗅ぎつけたか」
影の一人が馬の脚へ何かを投げる。転倒狙い。
もう一人が馬車の側面へ寄る。
狙いは荷ではない。器具箱だ。
「アルカ、伏せて」
アルカは従う。医療者は戦場で逆らわない。
セレナが手を上げた。
小さな光点が空中に浮く。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
灯りではない。“標”だ。
光点が線で繋がり、簡単な星座の形になる。
次の瞬間、その形が地面に落ち、影の足元を囲う。
囲ったように見えた。
だが、閉じ込めるためではない。
光点は、影の進路に沿って散った。
塞ぐためではなく、
進む先を読み違えさせるために。
影が踏み込む。
その瞬間、三つの灯が別々の位置で瞬いた。
距離の基準が割れ、踏み込みの終点が半歩ずれる。
セレナは次の星を一つだけ増やし、形を変えた。
星座がほどけ、光が細い線になる。
線は足を縛らない。
影の視界の端に、別の進路を灯すだけだ。
影の重心が、ほんのわずかにそちらへ流れる。
その一瞬で、馬車の側面から狙いが外れた。
影が倒れる。
骨を折る角度ではない。
起き上がれるだけの余白を残してある。
御者が息を呑む。
「……今のは」
「見なかったことにして。走って」
セレナが言う。
影は一拍迷い、撤いた。
退き方が揃っている。
揃っているほど、裏がある。
アルカが器具箱を抱え直す。傷はない。
狙いが“器具箱=医療の鍵”だったことだけが残る。
セレナが小さく言う。
「記録、作らせたくないんだね」
「作らせたくないから来た。
——だから作る。王国で」
馬車は速度を落とさず、救護所へ向かった。
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王国/王都 教会救護所(夜明け前・少し後)
救護所の入口は、先ほどより人が増えていた。
出入り帳を持つ者もいる。
王国側の手が薄く入ってきた証拠だ。
レイナが先に出て、二人を見た。
「……来たね。久しぶり」
セレナが軽く頭を下げる。
「ご無沙汰しています、レイナさん」
アルカも続ける。
「……お久しぶりです。急ぎの用件で失礼します」
奥からアルトが出てくる。
「間に合ったか」
セレナが一礼する。
「アルトさん。ご無沙汰しています。
今は挨拶短めで。中を」
アルカも頭を下げた。
「アルトさん。遅れて申し訳ありません。
医療立会いとして入ります」
司祭が一瞬驚き、すぐ姿勢を正す。
「帝国の医局……いえ、こちらの手順に
従っていただけるのですね」
アルトが短く言う。
「そうだ。ここでは救護所の手順に従ってもらう」
アルカは頷いた。
「承知しています。医療立会いとして入ります」
セレナが後ろから顔を出す。
「こんにちは。……邪魔じゃないよ。医療の補助」
司祭の視線が揺れる。
帝都魔導士協会会長の名前は、王都でも通る。
通るが、喜ばれない。
「……星灯の……」
セレナが笑って軽く手を振る。
「患者を先に」
布をめくる。
寝台の男は浅く息をしている。
胸の紋は薄いまま残っている。
アルカが手袋をはめ、
脈、瞳孔、呼吸、皮膚温を確認する。
祈祷の声が近いと、喉がわずかに動く。
アルカが司祭へ指示する。
「祈祷は無音。人数は最小。香は焚かない」
「外部の接触は不可。触れれば悪化します。
記録に残します」
司祭が頷く。
「はい。昨夜からギルドの方が……」
アルカがアルトを見る。
「患者が“えす”と言ったと聞きました」
アルトが頷く。
「司祭の引き継ぎ票にも記号があると言っていた。
“預かり”の語も」
アルカの表情が一瞬だけ硬くなる。
「……帝国の符号に近いです」
セレナが低く言う。
「帝国が表で使う言葉じゃないやつ?」
「そう。だからこそ、ここで“記録”が嫌われる」
アルカは書く準備を始める。
医療記録として、
患者の状態と“接触で悪化”を明文化する。
レイナが入口側へ視線を投げる。
「外の記録係、増えてる」
アルトが頷く。
「来る前に、こちらの盾を厚くする」
セレナが言う。
「外を見る。もう一回来たら、
今度は救護所の中で揉める」
レイナが軽く笑う。
「揉める前に止める。得意そう」
セレナは笑わない。
「得意じゃない。嫌いだから止める」
言い終わる前に、入口側の空気が少し変わった。
出入り帳を抱えた係が、通路の端で足を止める。
その後ろから、
教会の紋を控えめに隠した外套が入ってきた。
マティアスだ。
さらに少し遅れて、
紙を持たないレオンハルトが続く。
最後に、
地図筒を抱えたシルヴィオが扉をくぐった。
レイナが目だけで数える。
「……揃ってきたね」
レオンハルトが状況を短く確認する。
「患者は動かせない、で一致だな」
アルカが即答する。
「はい。医療判断として不可です。
接触で悪化します。記録は残します」
シルヴィオは地図筒を脇に寄せ、
入口側へ目を向けた。
「外の導線は押さえている。
正面から入る動きは止められる」
そこで、入口側に視線を流す
「問題は、入らずに見ている連中だ。
そちらで拾っているか」
レイナが答える。
「遠巻きがいます。断定はできません。
近づかない距離で見てます」
マティアスが司祭へ。
「教皇の指示は通っている。
保護優先、医療判断優先、移送判断は本部へ」
司祭が頷いた。
「はい」
そこへ、外の気配を見に出ていた
セフィラが戻ってくる。
外套を脱ぎながら、入口側を一度だけ振り返った。
「接触はない」
「向こうは距離を保ってる。
見ているだけ。……今は」
シルヴィオが短く頷く。
「なら、まだ踏み込ませる段階じゃないな」
セフィラは室内を見渡した。
「……揃ったね」
セレナが何か言いかけた。
けれど、寝台の男の呼吸が浅く跳ねた瞬間、
言葉を飲み込む。
アルトが言う。
「揃った。——だからここから先は、
誰が触れるかの話になる」
セフィラが患者の紋を一瞥し、アルカを見る。
「医療で止められる?」
「止められます。止めた事実を残せます」
セフィラは頷く。
「なら、ここは守れる」
その瞬間、救護所の外で声が止んだ。
人が減ったのではない。
通される者のために、場が空けられたのだ。
扉の向こうに、昨夜とは違う重さが立っている。
救護所の中では、アルト、レイナ、セフィラ。
教会の者たち。王国の役人たち。
そして、アルカとセレナ。
それぞれ違う立場の者たちが、
同じ寝台を見ていた。




