第64話 星灯の机上
帝都ヴェイルフォルムの朝は、音が少ない。
馬車の車輪も、露店の呼び声も、
角を立てないように整えられている。
帝都魔導士協会の執務室で、
その整いをさらに整える女性がいる。
セレナ・アークライト――帝都の協会会長。
王国で魔導士協会を束ねる姉と同じ家名を
持ちながら、立つ場所は帝国の中枢だ。
二つ名は“星灯”。笑っているのに、
手が止まらない。
「はいはい、今日も結界当番は逃げられないよー。
逃げた人は、講義枠を二つ増やしまーす」
軽口が飛ぶ。紙が動く。返事が返る。
明るさは飾りじゃない。場を軽くして、
人を動かすための速度だ。
机の上には、研究申請の束。講義調整の札。
結界当番の表。
ただし――その“結界”を取り仕切るのは
協会ではない。帝国魔術研究所だ。
協会が回しているのは、
研究所が引いた手順の中で
割り当てられた運用だけ。呼吸のような雑務。
だが、呼吸が乱れれば都市が咳き込む。
「会長、今日の当番……研究所から
“時間指定”が来てます」
「来るよね。来ない方が怖いもん」
セレナは笑って受け取る。
笑って受け取って、笑ったまま速く読む。
紙の端は揃っている。言い回しも丁寧だ。
丁寧すぎるほどに、揃っている。
(……揃い方が、上手い)
嫌な感じ、ではない。悪意でもない。
ただ整いが、
こちらの当たり前より一段だけ綺麗だ。
セレナは当番表を、机に置いた。
置き方まで軽い。
けれど、視線だけが一瞬だけ止まる。
「ねえ、これ。今日の順番、誰が組んだの?」
「研究所です。いつも通り、向こうの結界班が――」
「うん。いつも通り、ね」
“いつも通り”を口にした瞬間、
胸の奥に小さな引っかかりが残る。
いつも通りに見せるために、
いつも以上に整えている。
「……まあ、いいや。通す。通すけど」
セレナはペン先で、
文言の一箇所だけを軽く叩いた。
ただの敬語。よくある配慮。
それでも、そこだけがやけに滑らかで――
紙面が“息をしてない”みたいに感じた。
「返す時、“薄く”して。言い方も、残し方も」
「『確認のため』で十分。余計に丁寧にしない。
――丁寧すぎるの、今は目立つから」
部下が戸惑う。
でも戸惑いはすぐ動作に変わる。
ここは帝都だ。迷いも整えられている。
セレナは次の束へ手を伸ばした。
申請。調整。割当。確認。
軽口を挟みながら、全部を前へ流す。
前へ流している間は、都市は回る。
……その“回る”ところへ、
昼前にもう一通が滑り込んだ。
封が厚い。紙が厚いんじゃない。
触れた瞬間に分かる
――触れてはいけない範囲が厚い。
「きたきた。……はい、今日の
“ここから先は見なくていいです”」
冗談にして封を切る。
冗談にしておかないと、空気が固まる。
固まる空気は、帝都では目立つ。
目立つものは噂になり、噂は形になる。
中身は整然としている。
“協会に共有される範囲”だけが、
丁寧に切り取られている。
核心は最初から存在しないみたいに、
紙面が綺麗だ。
帝国魔術研究所――結界も研究も、
帝都の裏側の呼吸も、そこで握られている。
協会は研究所の監督の下で、
表の手順を回す役目を担う。
関われる。だが、核心には触れられない。
「会長、協会としての回答を――」
「うん。形式で返す。形式のままね」
笑って返す。
そして返した後、セレナは“別の線”を作る。
「……でも一つだけ、聞く」
セレナは紙面の端に、短い確認事項を書き添えた。
“答え”を求める質問じゃない。温度を測る質問だ。
――当番表の順番。今回、誰が確定させた?
書き終えて、セレナはペンを置く。
置き方は軽い。だが、指先の正確さは戻らない。
引き出しから、小さな紙片。
宛名は書かない。
けれど、手癖はまっすぐ一人へ向かう。
帝国副侍医長、
サロメ・リグリス・ヴァル=アルカ。
長年、内政の隙と研究所の影を嗅ぎ続けた相棒。
公式の窓が閉じるたびに、
非公式の呼吸だけで繋がってきた相手だ。
セレナは筆圧を落とす。文字を“綺麗にしない”。
綺麗な字は、読み手を増やす。
――今日の便、息をしてない。
――結界当番の順番、滑りすぎ。
――理由は言えない。けど、変。
――そっちは、何か拾った?
返事を待つ文じゃない。合図だ。
合図は短いほど、折られにくい。
紙片を閉じる瞬間、セレナは笑みを戻した。
戻した、というより――笑みを“仕事”に戻した。
午後は講義の調整で、また人が来る。
人が来るなら、場を軽くする。軽くして、動かす。
帝都は整っている。整いは安心だ。
なのに今日は、その整いが、少しだけ怖い。
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夕刻
机の端に、返事が戻る。紙片一枚。薄い。
薄いのは急いだからじゃない。
“こういう時ほど薄くする”
――長年の癖が、そのまま文字になる。
――拾った。
――結界班、今朝から持ち場がずれてる。
――記録は綺麗。綺麗すぎて逆に浮く。
――それと同じ文言の申請が、
医療側にも回ってる。
――触るな。……触るなら、“冠”の方へ線を通せ。
最後の一行が、アルカらしい。
脅しじゃない。怖いものの形を知っている口だ。
セレナは笑って、返事を一行だけ書く。
――了解。触らない。
――でも、見ないふりもしない。
そして紙片をしまう。燃やさない。
燃やした瞬間、“燃やした理由”が噂の形になる。
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夜
執務室は静かになる。
帝都の静けさは、人が減った静けさじゃない。
音の角が落ち、街の呼吸が“平ら”に戻る静けさだ。
セレナは便箋を一枚だけ出す。
長文にすると、言葉が形になりすぎる。
形は掴まれる。
「姉さん、元気?」
書き出しは、それだけ。
姉――セフィラへ落とす線。
事件報告ではない。観測のメモだ。
(姉さんなら、理屈で止める)
(私は、嫌な感じで止める)
ペン先が走る。
帝都は綺麗だ。
綺麗であることが当たり前で――
当たり前のはずの揺れまで消えている。
「……こっちは、揺れが無さすぎる」
その一文を書いた瞬間。
紙の端が、ほんの僅かに浮いた気がした。
誰かが触れた――のではない。
触れられる“前提”だけが、先に差し込まれた。
セレナは笑った。軽く。
笑って、笑いのままペンを置き直す。
「触るなら……もっと上手くやって」
声は小さい。怒りはない。
ただ、封を閉じる指先だけが、やけに正確になる。
封蝋は使わない。
強く閉じれば、“強く閉じた理由”が残る。
代わりに、折り目を一つだけ増やした。
守るためじゃない。
――触れた痕跡が残る折り目だ。
セレナは便箋を封筒へ滑らせ、机の端へ置く。
置き方は軽い。
けれど、置いた瞬間に室内の空気が
一拍だけ固まる。
結界灯が、窓の外で揺れない。
揺れないことが、今夜は少しだけ怖い。
セレナは笑みを仕事へ戻したまま、
最後にだけ、余白へ短く書き添えた。
――姉さん。こっちは、揺れが消えすぎてる。




