第7話 正しい進路の、縁で
後になって思えば、
あの日の勇者一行は、あまりにも順調だった。
討伐は成功し、被害はなく、
報告書には何の問題も見当たらない。
――だが、その進路の端で、
異常は、確かに残っていた。
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焚き火の音が、静かな夜に溶けていた。
街道沿いの小さな森。
勇者一行はそこで野営をしていた。
今日の討伐は順調で、負傷者もいない。
鎧を外し、装備を緩める余裕すらある。
「いやあ、思ったより楽だったな」
そう言って薪をくべたのは、剣士のロイスだった。
屈強な体格に似合わず、口調は落ち着いている。
「油断するなよ」
「分かってるって。でもさ」
ロイスは肩をすくめる。
「この調子なら、明日も問題なさそうだろ?」
「問題が起きないなら、それが一番だよ」
そう返したのは、セリスだ。
焚き火の向こうで、魔導書を閉じる。
「討伐は目的じゃない。結果だもの」
「相変わらず理屈っぽいな」
「事実を言ってるだけ」
軽い言い合いに、回復術師のミラがくすりと笑う。
「二人とも、喧嘩しないで」
「はいはい」
その様子を、勇者――エリオは静かに眺めていた。
剣を磨く手は止めていない。
だが、意識は少しだけ別の場所にあった。
(今日も、うまくいった)
魔物は倒れ、村は守られ、感謝された。
仲間は無事で、作戦も問題ない。
(……これで、いいんだよな)
そう思おうとする自分がいる。
深く考えなくても、
物事が前に進んでいく感覚。
それは、どこか心地よかった。
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「エリオ」
呼ばれて、顔を上げる。
「見張り、交代だ」
「……あ、ああ。分かった」
声をかけてきたのは、ティオだった。
斥候役の彼は、すでに装備を整えている。
「気配、変じゃない?」
「変?」
エリオは、言われて森を見る。
風は穏やかで、
獣の鳴き声も遠い。
「特には……」
「だよな」
ティオは軽く笑った。
「まあ、勘だよ。外れたらそれでいい」
焚き火から少し離れ、夜の森に目を向ける。
静かだ。
静かすぎるほどに。
(……いつも通り、のはずなんだけど)
そう思った瞬間、
胸の奥に、微かな引っかかりが生まれた。
理由は分からない。
音も、気配も、異常はない。
ただ――
“そこにあるはずのもの”が、
一瞬だけ、思い出せなくなったような感覚。
(気のせい、か)
エリオは、首を振る。
これまで何度も、
こうして野営をしてきた。
危険な兆しがあれば、
身体が勝手に反応する。
それが、自分の強みだ。
(見えているものなら、大丈夫)
そう思い、視線を巡らせる。
「どうした?」
背後から、ロイスの声。
「いや、何でもない」
「そうか」
ロイスは同じ方向を見て、
ほんの一瞬だけ眉をひそめたが、
すぐに表情を戻した。
「ならいい。無理はするなよ」
その言葉に、エリオは小さく頷いた。
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焚き火の方では、まだ会話が続いている。
「明日は少し進む?」
「地図を見る限り、問題ないと思う」
「早く終われば、それに越したことはないね」
いつものやり取り。
いつもの空気。
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エリオは、もう一度森に目を向けた。
何もない。
何も見えない。
何も、起きていない。
それでも――
視界の端に、ほんの一瞬、
“空白”のような揺らぎが走った気がした。
(……?)
瞬きをすると、それは消えていた。
(見間違いだ)
そう結論づけ、焚き火の輪に戻る。
差し出された水袋を受け取り、口をつける。
その夜は、
何事もなく過ぎていった。
少なくとも、
彼らにそう思わせるだけの、静かな夜だった。
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翌日、王国ギルド。
アルトは、地図の上に複数の報告書を並べていた。
勇者一行の進路、討伐地点、野営地。
それらを一本の線としてなぞる。
「……ここだな」
指先が止まったのは、
進路のすぐ脇にある、小さな空白だった。
「被害は、やっぱりないです」
報告に来ていた職員が言う。
「魔物の痕跡もありません」
「結界の異常も、検知されていません」
アルトは頷き、続きを促す。
「ただ……」
「『何も起きていないはずなのに、不安が残る』と」
アルトは、その言葉に目を伏せた。
同じ表現を、もう何度も聞いている。
言い回しは違えど、意味は同じだ。
「安心できない」
「理由は分からない」
「だが、何かが欠けている」
「勇者一行は、この地点を通っていない」
地図を指し示しながら、アルトは言った。
「森の縁だな」
「はい。進路としては、最短ではありません」
アルトは、静かに息を吐いた。
「だからこそ、だ」
勇者は、正しい道を選ぶ。
危険が少なく、
魔物がいて、
倒すべき敵が明確な道を。
それは、間違いではない。
むしろ、理想的だ。
だが、その結果――
“選ばれなかった場所”が生まれる。
「……通らなかった、か」
アルトは小さく呟いた。
*
セフィラの言葉が、脳裏をよぎる。
――世界が、選択肢を減らしている感じ。
*
「ここ、です」
職員が差し出した追加報告書には、
簡素な図が描かれていた。
森の縁。
草が、妙にまばらな一角。
「踏み荒らされた形跡はありません」
「でも、戻っていないそうです」
アルトは、しばらく無言でそれを見つめた。
草は折れていない。
枯れてもいない。
ただ、
“そこだけが、育っていない”。
「削れているな……」
それは破壊ではない。
侵食とも、違う。
あったはずのものが、
静かに、薄くなっている。
「存在が、抜け落ちている」
《統治者の残響》
胸の奥が、微かに疼いた。
数値には出ない。
記録にも残らない。
だが、確かにそこには
“偏り”がある。
「勇者が来ていれば、どうなっていました?」
職員が、恐る恐る尋ねる。
アルトは、少し考えてから答えた。
「……おそらく」
「何も起きなかっただろう」
「え?」
「勇者は、正しい敵を倒す」
「だが、これは敵じゃない」
アルトは、地図から目を離さずに言う。
「だから、戦いは起きない」
「結果も変わらない」
「だが――」
アルトは、地図の縁をなぞった。
「残るものは、残る」
「通らなければ、触れないまま、だ」
その沈黙が、
何を意味するのか。
職員は、理解しきれないまま頷いた。
アルトは、椅子にもたれ、天井を見上げる。
「……賢いな」
誰に向けた言葉でもなかった。
勇者を避け、
正面からぶつからず、
縁だけを削る。
「これは、戦争じゃない」
「討伐でも、侵略でもない」
彼は、静かに結論づけた。
「世界の『外側』から起きている」
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その日の夕方、
勇者一行の新たな討伐報告が届いた。
内容は、相変わらず順調。
魔物討伐、成功。
被害なし。
民の士気、高。
アルトは、その報告書を閉じた。
「……正しい物語は、進んでいる」
だが、
その裏で削れていくものがある。
勇者が通らなかった場所。
剣が届かなかった縁。
そこから、
次の異常は、必ず広がる。
アルトは、そう確信していた。




