第53話 異常で結ばれる点と線 ー境界の影
セフィラは歩きながら、紙を広げない。
代わりに、指先で空を“なぞる”。
見えない文字。
見えない図。
だが、彼女の動きには確かに
――「書いている」癖があった。
「今、何してる」
レイナが言う。声は出る。語尾も落ちない。
さっきまでの“均一さ”が、
背後へ薄れていくのが分かった。
「記録」
セフィラは短く答えた。
「紙に書くと、読んだ瞬間に固定される」
「固定されると――場に届く」
アルトは歩幅を崩さずに頷いた。
(読まれない形で残す)
(自分の中にだけ、錨を打つ)
レイナが鼻で笑う。
「面倒な錨ね」
「でも、今の私たちには丁度いい」
セフィラは返事をしない。
指先だけが、一定の速さで空を走る。
“線”の形。
枝分かれ。合流。円。
そして――薄く透けた箇所。
言葉にすれば削られる。
名を与えれば固定される。
だから、記号のまま保持する。
アルトは背後を見ないまま、気配だけを拾った。
外套の男は、距離を一定に保つのではなく――
こちらの“揺らぎ”に合わせて、
少しずつ置き直している。
踏み音が不自然に小さい。
消しているのではない。
目立つ瞬間を作らない歩き方だ。
呼吸も同じ。
大きく吸わない。吐き切らない。
場に“引っかかる形”を避けている。
(……慣れてる)
慣れているのは、この森ではない。
“こういう場所で崩れない手順”にだ。
「……戻ると、言葉が戻る」
セフィラが小さく言う。
それは安心ではなく、警戒だった。
「戻るほど、薄まる」
「見たものが、“感触”だけになる」
「ムカつく。ちゃんと見たのに」
「見たことが、勝手に“無かったこと”にされる感じ」
「無かったことには、ならない」
アルトが言葉を置く。短く、硬く。
「ただ……薄くされる」
「だから文面にする」
「切り取られない形で、固定する」
レイナが横目で見る。
「王国と帝国に同じ文面、だっけ」
「同じだ」
アルトは頷く。
「片方だけに渡したら、
片方の都合で“正解”が作られる」
「二方向へ同時に落とせば、切り取りにくくなる」
セフィラが、空に“最後の一画”を引く。
「……落とすのは、必要最低限」
「形だけでいい」
「意味まで書くと、意味が“相手の形”に合わされる」
レイナが肩をすくめる。
「政治って、気持ち悪い」
「気持ち悪い方が安全だ」
アルトは淡々と言う。
「気持ちいい答えは、誘導されやすい」
一拍。
森―― と呼ぶには薄い場所の境目が近づいた。
木々の密度が少しずつ戻る。
遠近が“普通”の顔を取り戻す。
そして、音。
枝を踏む乾いた音。
草を払う擦過音。
風が葉を揺らす散った音。
――散る、という揺らぎが、
こんなにも安心に感じる。
(……均一は、楽だ)
(楽なのが、怖い)
アルトはわざと息を深くする。
深く吸うと、薄い瘴気の気配がまだ残る。
濃くない。
だが、散っていない。
“外に出ても、まだ尾を引く”程度には。
レイナが眉を寄せた。
「戻ってるのに、残ってる」
「……ついてきてない?」
「ついてきてはいない」
セフィラが短く否定する。
否定の言葉だけは落ちない。
落とすと余計に怖くなるからだ。
「ただ……残滓が、残滓のまま散らされてない」
「“落ち着かせた形”で広がってる」
アルトが受け取る。
「つまり、“自然な薄まり”じゃない」
レイナが小さく息を吐く。
「やっぱり、嫌な仕事拾ったね」
「拾ったんじゃない」
アルトは歩調を変えない。
「拾わせた、に近い」
外套の男が、そこで少しだけ口を開いた。
「……拾った方が生き残る場合もある」
レイナが振り向く。
「それ、慰め?」
「それとも脅し?」
男は答えない。
答えないが――沈黙の質が、机上じゃない。
セフィラが、淡々と告げる。
「現場の言い方」
「それだけは、信用できる」
レイナが鼻で笑った。
「信用の仕方が変」
「でも、今はそれでいい」
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王都へ戻る道すがら、
アルトは頭の中で“報告書の骨”を組んだ。
書けるのは「形」
形を示すのは「観測」
観測の文面は「最低限」
それ以上は――誘導に乗る
(“線”)
(“透け”)
(“言葉が落ちる”)
(“均一化”)
現象は四つ。
原因は書かない。
推測は、書くとしても“条件付き”にする。
「セフィラ」
アルトが言う。
「帰ったら、君の“空のメモ”を紙に落とす」
「ただし、手順がいる」
セフィラは頷いた。
「一人で書かない」
「三人の合意で、短く」
「言い回しは、あなたが決める」
レイナが口を挟む。
「私は?」
「書くの苦手」
「苦手な人の目がいる」
アルトは即答した。
「変な言い回しに気づく」
「誘導っぽい文章を嫌がれる」
「それが必要だ」
レイナは一度首を振って言う。
「……嫌がる役ね」
「嫌がる役が、いちばん守る」
アルトの言い方は、妙に静かだった。
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王国ギルドに戻ると、空気が“普通”すぎた。
人の声。
紙の擦れる音。
床を叩く靴音。
受付の呼び声。
全部が散っていて、揺らいでいて、
雑で――だから安心する。
だが、その安心の中で、
さっきの“均一”が逆に異物として浮く。
アルトは机を確保し、紙を広げた。
封蝋は押さない。署名もまだしない。
「まだ、文面を“完成”させない」
セフィラが頷き、
空に書いた線を思い出すように目を伏せる。
レイナが椅子に座り、腕を組む。
「で、どう書く?」
「“線があった”ってだけじゃ弱い」
「でも、書きすぎると飲まれるんでしょ」
「だから、骨だけ」
アルトは紙の上に、箇条書きで置く。
――戦後異常事案(王国指定)の関連地点にて、
瘴気残滓の分布異常を確認。
――残滓は薄いが散逸せず、
局所的に“筋状”の配列を示す。
――同地点で会話の語尾が落ちる等、
判断・言語化を阻害する現象を確認。
――魔物の集積は確認されず(通常傾向と逆)。
――追加観測には、
現地での“接続”を伴う可能性があるため、
現時点では保留。
レイナが眉を上げる。
「“接続”って言い方、いいね」
「踏んだら参加、って感じが伝わる」
セフィラが短く補足する。
「“術式が残っている”ではない」
「“術式にした痕”の可能性」
「ただし、断定しない」
アルトは頷き、文面に括弧で条件を付ける。
――(術式痕の可能性:断定不可。
追加観測により確度上昇の見込み)
「……よし」
アルトは一度、ペンを置いた。
「次は、“送付の形”だ」
王国宛。
帝国宛。
同じ文面。
同じ日付。
同じ差出。
「切り取らせないために、同時に落とす」
レイナが言う。
「誰が運ぶ?」
アルトは淡々と返す。
「王国はレオンハルト経由」
「帝国は――監督の窓口宛」
レイナが、先に理由を噛んで吐く。
「会議筋に回すと、文面は“整えられる”」
「整えられた時点で、切り取りが始まる」
アルトが頷く。
「レオンハルト経由なら、
王が“読んだ”事実だけが先に立つ」
「整える前に、読ませる」
「監督の窓口に落とせば、
帝国は“受理しない”を選べない」
アルトが続ける。
「条文で縛る相手には、
条文の机に同じ紙を置くのが一番効く」
セフィラは、小さく息を吐いた。
「“監督”は、読んだ瞬間に形を作る」
「だから、先に形を置く」
「こちらの言葉で」
レイナが笑わずに言う。
「静かな戦争だね」
「静かなうちは、まだ戦争じゃない」
アルトは紙を揃える。
「戦争になるのは、中心を見た後だ」
その言い方は、予感ではなく、
順番の宣告に近かった。
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その夜。
アルトは、同じ文面を二通、封筒に入れた。
封は閉じるが、封蝋は押さない。
押せば“王国の公式”が濃くなる。
必要なのは、公式ではなく、逃げ道のない同時性。
セフィラが机の端で、もう一度だけ空をなぞる。
それは祈りではない。
記憶の固定だ。
レイナは窓の外を見ていた。
遠くの街灯が揺れている。散っている光。
――散っているのに、整って見える瞬間がある。
その瞬間だけ、背中がぞわりとした。
「……アルト」
レイナが言う。語尾は落ちない。
「次、行くんだよね」
「中心へ」
アルトは頷くが、即答しない。
即答すると、簡単な正解になる。
「条件が揃ったらな」
セフィラが言葉を置く。
「文面が届く前に、もう一度“入口”が変わる」
「変わったら、中心は近い」
アルトは封筒を二つ、重ねた。
「……届くのは、向こうも同じ」
同時に落とした言葉は、同時に返ってくる。
王国の沈黙。
帝国の静けさ。
瘴気の残滓。
三つとも、今はまだ“答え”になっていない。
だが――答えが近づく音だけは、確かにしていた。
封筒をしまう指先で、アルトは小さく息を吐く。
「明日、動く」
それは宣言ではない。
ただの予定でもない。
“次の段階へ入る”ために、置かれた一行だった。




