第49話 民間調査(自発的活動)
出発は、日が落ちる前。
目立たない時間帯を選ぶ。
馬車ではなく、徒歩。
軍装は避ける。
“民間”を名乗るなら、その形を崩さない。
本当なら、こういう仕事は調査員を出す。
ギルドには、土地勘のある冒険者も、
足の軽い斥候もいる。
――だが、今回は「現場を見て終わり」の
案件じゃない。
帝国の通達が絡む。
“監督”が絡む。
言葉ひとつで、王国が噛まれる。
だから、顔が要る。
責任を背負える顔。
切り取られない報告を、
その場で「決められる」顔。
アルトが前に出る理由は、それだった。
ギルドマスターとしての署名。
王国と帝国の双方に同じ文面を落とす、
その決定権。
レイナが同行する理由も明確だ。
調査員を束ねる統括受付嬢
――という肩書きは飾りではない。
現場で動ける者の判断と、撤収の線引き。
そして何より、
アルトが政治に引き込まれすぎないよう
「現実」を押し戻す役。
セフィラは、逆に“理屈”の側だった。
瘴気の残り方が異常であるなら、
そこには術式がある。
術式があるなら、読める者が必要になる。
監督の目を欺くためにではなく
――監督の目が届く前に、
現象を言語化するために。
三人が出る。
少人数だからこそ目立たない。
少人数だからこそ、見える。
ギルド裏口を抜けると、王都の空気が肌に触れた。
焦げ臭さはない。ここは戦場ではない。
代わりに残っているのは、
戦後の「動員」の匂いだ。
鉄と油。
革の手袋。
封蝋と乾いた紙。
兵站の馬車が往来した通りにだけ、
薄い埃が積もっている。
そして――薄い、薄い瘴気。
(……消えてない)
完全には。
薄くなっただけで、居座っている。
王都の外縁まで、霧のように“届いている”。
「勇者たちは?」
レイナが前を見ながら言う。
「今は関係ない」
アルトは即答した。
「勇者は“前”を見てる」
「俺たちは“脇”を見る」
セフィラが短く足す。
「前が正しくても」
「脇が腐れば、道は落ちる」
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目的地に近づくにつれて、空気が変わった。
薄いはずの瘴気が――妙に、滑らかだ。
霧のように漂っているのに、粒が揃っている。
セフィラが立ち止まる。
「……整ってる」
レイナが周囲を見回す。
「魔物の気配は?」
「薄い」
セフィラが答える。
「薄いのに、瘴気はいる」
「逆だ」
鳥も鳴かない。
虫の音もしない。
世界が、息を殺している。
アルトは、地面に膝をついた。
土の上に残る黒い筋。
焦げではない。染みだ。
指先で触れない。
触れれば、皮膚が負ける。
「瘴気の“痕”だ」
レイナが低く言う。
「戦いの残りじゃない」
「うん」
アルトは視線を上げる。
「残り方が、意図的だ」
「散ったんじゃない」
「……置かれた」
セフィラが短く息を吐く。
「魔法は“出す”ものじゃない」
「“置く”もの」
かつて自分が言った言葉が、別の形で刺さる。
「置く者がいる」
レイナが一歩前へ出る。
「出てくる?」
「まだ」
アルトは首を振った。
「ここは、見せたい場所だ」
「出てきたら、答え合わせになる」
セフィラが指先で小さな術式を組む。
光が瞬き、消える。
「観測」
「何が見える」
「……線」
セフィラの目が細まる。
「瘴気の流れが、線になってる」
「集められている」
「……中心がある」
「中心?」
レイナが問うより早く、アルトが言った。
「条文の机が欲しがる“中心”だ」
そして、遅れて気づく。
足音。規則正しい。
軍の足音に近い。だが、重すぎない。
影が木立の向こうから現れた。
灰ではない。黒でもない。
濃い外套。余計な装飾はない。
胸元に小さな徽章――見せるためではなく、
“身内にだけ分かる”位置。
(……帝国の現場係か)
アルトはそう判断する。
ここに“正規軍”を出せないから、
こういう手を使う――そういう構図は、
もう見えている。
男は、こちらを見て足を止めた。
視線が三人を順に撫でる。
「……王国ギルドか」
声は低い。感情は薄い。
しかし確認ではない。
(知っている)最初から。
アルトは一歩前へ出る。
「先に言っておく」
「これは王国の公式調査じゃない」
「民間の“自発的活動”だ」
男の口角が、ほんの少しだけ動いた。
「承知している」
丁寧だ。だが距離は詰めない。
「......帝国側の現場担当だ」
「現場の安全確認に来た」
「安全?」
レイナの声が鋭い。
男は答えない。
答えないまま、地面の黒い筋へ視線を落とす。
「瘴気が“整う”のは、敵味方を選ばない」
「見えているのに、報告が遅れれば
――次は、戦争より先に汚染が来る」
“汚染”という単語が、胸に落ちる。
戦場の言葉じゃない。
世界の言葉だ。
「……君たちが先に来たのは」
「正直、予想より早い」
アルトが言う。
「予想してたのか」
男は視線を上げる。
「王国は動けない」
「動けば、条文に噛まれる」
「動くなら、君たちだ」
静かな断言。
(……読まれてる)
「だから、こちらも早めた」
先回り。
止めない。止めるより先に、枠を置く。
男が続ける。
「ここは入口だ」
「中心は、この先」
「君たちは、行ける」
命令じゃない。
だが、導いている。
「……何がしたい」
レイナの声は低い。
男は間を置いて言った。
「“報告書”が欲しい」
「君たちの言葉で」
「王国の言葉でも」
「帝国の言葉でもなく」
セフィラが小さく息を呑む。
――言葉の主導権。
アルトは視線を逸らさずに言う。
「なら、条件がある」
「言え」
「俺たちの報告は、二方向に落とす」
「王国にも、帝国にも」
「切り取りはさせない」
男は少しだけ目を細めた。
「……面倒だな」
「面倒にする」
「都合よく使わせない」
沈黙が落ちる。
風が吹き抜ける。
瘴気が、薄く揺れる。――整って揺れる。
男は、最後に一言だけ落とした。
「その条件でいい」
「ただし――」
一拍。
「中心を見たら」
「君たちは、同じ結論に辿り着く」
確信だけがある声音。
アルトは頷いた。
「見てから決める」
そして三人は歩き出す。
“帝国の影”と並ぶためではない。
先導させるためでもない。
ただ、同じ方向へ進む。
“戦後の異常”は、もう“戦いの残り”ではない。
次の戦争の、準備だ。
その中心へ向けて――
瘴気が、静かに道を作っていた。
三人が踏み込むたび、
空気の“滑らかさ”が増していく。
霧のように漂う瘴気は、散っていない。
散っていないのに、濃くもない。
――整えられている。
木々の間を抜ける道に、偶然がない。
瘴気が、風ではなく“筋”で寄っている。
目に見えない溝を掘られ、
そこへ落とされているような寄り方だった。
レイナが口の端を引き結んだ。
「気持ち悪い」
「ここだけ、森が“呼吸”してない」
確かにそうだ。
葉擦れの音はある。枝が軋む音もある。
だが、生き物の気配が薄い。
逃げたというより、最初から“寄せつけていない”。
後ろを振り返らずとも分かる。
“帝国の現場係”の男は、一定の距離を崩さない。
先導ではない。同行でもない。
三人の判断だけは前に出させる
――そんな間合いだった。
アルトは、あえて目を合わせずに言った。
「現場の安全確認って言ったな」
「そうだ」
「安全を誰に保証する」
男は、答えない。
答えないまま、地面の黒い筋に視線を落とす。
代わりに、セフィラが言葉を拾った。
「保証ではなく、“枠”でしょう」
「“この現象は危険だ”と」
「“危険だから管理が必要だ”と」
男の口角が、わずかに動いた。
肯定でも否定でもない。
ただ、“理解が早い”という顔。
やがて、男が足を止めた。
「……ここだ」
木立が途切れ、ひらけた小さな空間。
そこだけ地面が、妙に平らだった。
草が生えていない。
土が乾いているわけでもない。
ただ、生命が根を張れない“薄さ”がある。
中心。
アルトが一歩、踏み込んだ瞬間――
《統治者の残響》が、喉の奥で鳴った。
――境界。
――干渉。
――履歴。
それは警鐘ではなく、読み上げに近い。
「ここは変えられている」と、ただ告げている。
セフィラが、指先を軽く振る。
小さな術式が空に浮かび、すぐに消える。
光は出ない。音もない。
だが、彼女の瞳だけが、わずかに焦点を変える。
「……見える」
「何が」
「線の“結び目”」
セフィラは地面を指す。
土の上に、薄い格子がある。
肉眼では、ほとんど見えない。
だが、瘴気の粒がそこだけ“揃って”落ちていた。
「受け皿」
「瘴気を、散らさないための“溝”」
レイナが眉をひそめる。
「散らさないため?」
「普通、散らした方が薄くなるでしょ」
「薄くするのが目的じゃない」
セフィラが淡々と返す。
「形を残すのが目的」
「観測できる“形”に」
アルトが、ゆっくり息を吐く。
(……見せるための“中心”)
男が言った“見せるもの”という言葉が、
ようやく輪郭を持つ。
男が、外套の内側から小さな札を取り出した。
札というより、薄い金属片。
刻印は小さく、意匠は簡素。
だが、刻まれた線は――ただの装飾じゃない。
男はそれを、地面の格子の端に“置いた”。
置いた瞬間。
瘴気が、わずかに“揺れ方”を変える。
風で揺れたのではない。
布が揺れるように、一定の周期に整う。
「……何をした」
レイナの声が低くなる。
剣に手はかけない。
だが、いつでも抜ける重心。
男は淡々と答える。
「干渉していない」
「“印”を置いただけだ」
「ここが観測対象だと、誰が見ても分かるように」
セフィラが、目を細める。
「……条文の杭」
「“ここは管理対象だ”と示すための……」
男は否定しなかった。
「ここは入口だ」
「入口である以上、線を引く」
アルトが、地面に視線を落とす。
格子の“結び目”が、金属片を中心にして、
ほんの少しだけ鮮明になる。
――観測が成立した。
(……これが、やり方か)
現象を止めるのではない。
現象を“報告できる形”にする。
そして、報告できるものを
“管理できるもの”に変える。
セフィラが、わずかに息を呑む。
「……存在だけは」
「実態は、見えない」
アルトは、視線を上げずに言った。
「見えない組織は」
「見えないまま、世界を動かす」
その言葉に、男の気配が僅かに硬くなる。
反論ではない。
“それを言われるのは想定外だった”という、
ほんの一拍。
レイナが吐き捨てるように言った。
「で、中心ってのはこれ?」
「土に線を引いて、札を置いて、はい管理?」
男は首を振る。
「これは目印だ」
「中心は――もう少し奥」
「まだ奥があるのか」
アルトの声は淡い。
驚きというより確認だった。
セフィラが地面を見ながら言う。
「この格子は“受け皿”」
「でも受け皿だけじゃ意味がない」
「流れがある」
「……流れの行き先がある」
指先が、空をなぞる。
見えない線をたぐるように。
「瘴気は、ここで整えられて」
「さらに“送られている”」
レイナが言う。
「送る先が……中心?」
「そう」
セフィラの声が、少しだけ硬くなる。
「そして、それは」
「自然の現象じゃない」
アルトは頷いた。
「誰かが、置いてる」
男が、静かに歩き出す。
「来い」
「見る価値はある」
命令ではない。
だが拒否する余地を削る言い方だった。
三人は、歩く。
木立がさらに濃くなる。
空が細くなる。
光が減る。
――なのに、暗くはならない。
瘴気が、薄い光を含んでいた。
闇の中で目が慣れるのではなく、
空気そのものがぼんやりと“照らして”いる。
セフィラが小さく呟く。
「……光ってる」
「瘴気が、自己照明してる」
「そんなの、あるのか」
「ある」
「あるように、組まれてる」
その時。
アルトの足元で、土がわずかに沈んだ。
沈んだのは一瞬。
すぐに戻る。
だが、確かに“揺れ”があった。
《統治者の残響》が、また鳴る。
――履歴の断層。
――境界の継ぎ目。
――“前提”の差し替え。
アルトは足を止めた。
「……ここ」
レイナが即座に立ち位置を変える。
アルトの半歩前。
守るためではない。
斬るための位置。
セフィラは詠唱に入らない。
代わりに、指先だけで小さな術式を重ねる。
観測を厚くする。
男は初めて低く言った。
「そこから先は」
「“入口”じゃない」
アルトが言う。
「中心だな」
男は、ほんの僅かに頷く。
「中心は、穴だ」
「……いや、“穴に見えるように作られたもの”だ」
アルトは、呼吸を整える。
(残りじゃない)
(前から混ざっていた)
(整えられ、送られ――ここに落ちている)
そして――
ここから先は、見た瞬間に
“報告書の言葉”が決まってしまう種類の現象だ。
セフィラが、低く言った。
「アルト」
「これ、たぶん……」
言いかけて、止める。
言葉にした瞬間、確定してしまうからだ。
レイナが短く言う。
「見るなら、覚悟して見よう」
アルトは頷く。
「見てから決める」
そして、三人は一歩だけ踏み込む。
土の上の格子が、ふっと消える。
代わりに、空間の“継ぎ目”が見える。
そこは森の中にあるはずなのに、森ではなかった。
世界が、薄い。
薄い膜が一枚、剥がれかけている。
その膜の向こうに――
“何かが置かれている”気配だけがあった。




