第46話 勝利の後の異常
魔帝都の空は、今日も澄んでいる。
勝利を祝う鐘の音は、ここには届かない。
あるのは報告と、計測と、沈黙だけだ。
石と黒曜で組まれた玉座の間。
温度も光も、最初から“整えられた”
空間の奥で、魔皇帝リリスは座していた。
「瘴気は――消えたわけではありません」
老いた侍従――カエルスが、帳面を閉じる。
声は低く、感情を混ぜない。混ぜられない。
「散りました。薄く。城の奥へ。
地の底へ。霧のように」
リリスは頷かない。否定もしない。
ただ、その報告を“記録”として受け取る。
「器が壊れたから、逃げただけ」
言葉は淡い。
だが、淡いままでは済まないことを
――誰よりも理解している。
カエルスが一歩、控えめに前へ出た。
「勇者は役割を果たしました。魔王アモン、
討伐確定。王国・聖教会の発表も一致しています」
「終わった、とは言わないで」
リリスの声は静かだった。
命令というより確認。
――確認であることが、恐ろしい。
カエルスは喉を鳴らし、言い直す。
「……段階が移りました。瘴気の残滓は
“形を変えながら”残存。次の観測が必要です」
リリスは、指先で玉座の肘掛けをなぞった。
黒曜が、ほんの僅かに軋む。
転生者は、珍しい存在じゃない。
珍しいのは――“扱い”のほうだ。
呼び出され、英雄の札を付けられ、
終点へ送られる。
成功も失敗も、世界は数値として畳み、
次の周期へ回す。
だが今回は、その畳み方が
先に決められようとしている。
だからこそ、今回の異常が際立つ。
戦いの結果ではなく、
戦後の扱いが、先に決められようとしている。
「――帝国が、静かすぎる」
カエルスが、わずかに眉を動かす。
それだけが、肯定だった。
「彼らは、終わりを嫌います。
終わりは“次の議題”を奪うから」
「議題は奪えない」
リリスは、短く息を吐く。
「なら、議題を乗せ替える」
その言葉は軽い。
だが、軽さの裏に
――長い時間の重みが潜んでいる。
リリスは、視線を上げる。
「準備を」
カエルスが深く頭を下げる。
「承知いたしました」
その瞬間、何かが決まった。
決めたのは、誰かではない。
世界の“流れ”だ。
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王都は、久しぶりに「夜を祝って」いた。
通りには灯りが増え、酒場の扉は開いたまま。
誰かが歌い、誰かが笑い、誰かが「勇者」と叫ぶ。
人々は勝利を必要としていた。
恐怖の上に立つ日々が長すぎたからだ。
「魔王が討たれた!」
「もう戦争は終わりだ!」
そう言いながら、杯を重ねる。
けれど――
勝利の熱の底で、
気づかれない違和感が息をしている。
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石畳の隅で、年老いた男が咳き込み、
胸を押さえた。
吐く息が、ほんの少し黒い。
「……変だな」
近くの女が顔をしかめる。
「風邪じゃないの?」
「いや……そういうのじゃ、ない」
男は言葉を飲み込み、ただ背を丸めた。
風邪の咳にしては、喉の奥が焼けるような音。
――違う。これは、風邪の匂いじゃない。
女は言いかけて、言葉を引っ込める。
誰もが気づけるほど濃くはない。
だからこそ厄介だ。
祝福の灯りが増えるほど、闇は見えにくくなる。
王都の夜は、賑やかだった。
賑やかすぎた。
――終わったと思いたい者たちの音で、
満ちていた。
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王城の奥。
祝勝の喧騒から切り離された、
小さな執務室には、拍手も歌も届かない。
机の上にあるのは勝利の報告書ではなく、
薄い紙束。
瘴気推移。
帝国の動静。
聖教会の声明。
ギルド本部からの“形式的な礼状”。
「……瘴気の推移、か」
国王アルベルトは
書類の角を指で揃えながら呟いた。
勝った。確かに勝った。
だが、報告書は“勝利”の余韻より、
次の不穏を先に書いている。
扉の外から、控えめな足音。
入室を許す前に、男は扉の前で一拍置いた。
礼節のためではない。
室内の空気を読むための癖だ。
「陛下。レオンハルトです」
「入れ」
扉が開き、背筋の伸びた男が静かに入る。
レオンハルトは王政の実務を握る側近だ。
形式上の肩書きはいくつもある。
王政会議の調整役、各省の折衝、
教会・ギルドとの窓口、
そして――王都内の“情報の集積点”。
それらを一つに束ね、
国王が「決める」ための地盤を整える男。宰相。
「祝勝の席には出ないのか」と問われれば、
彼は淡々と答えるだろう。
“祝う役目は他にいる”と。
「報告は」
アルベルトが短く言うと、
レオンハルトは紙束を差し出した。
「瘴気の残留は想定より広域です。濃度は低い。
ですが、“散り方”が不自然」
「……消えていない、ということか」
「ええ。消えたのではなく、逃げた。
――そう表現するほうが正確です」
アルベルトは目を伏せた。
報告書には、淡々とこうある。
――濃度は低下。だが散逸域は拡大。
“消失”ではない。“拡散”だ。
勝利は、終点ではない。
ただ“次の段階”へ押し出しただけ。
「帝国からは?」
その問いに、レオンハルトの返答は早い。
「祝意が届いていません」
「礼を欠いたわけではないな」
「はい。むしろ――“次の議題”として来ます」
アルベルトの指が止まる。
「戦争の後に、政治を置く気か」
「帝国は、そういう国です。
火が消えた場所に、別の火種を置きます」
アルベルトは、報告書の上に指を置いた。
「……静かすぎるな」
「同感です」
レオンハルトは、目を伏せる。
言葉を続ける前に、必要な線だけを選ぶ。
「“勇者の勝利”が確定したにもかかわらず、
帝国側の動きが見えない」
「教会も、いまは勝利の宣伝に徹しています。
……それは、表の話です」
「裏は?」
「裏は、動いています。見えないところで。
そして、その動きは王国の管理の外です」
アルベルトは、ゆっくりと椅子に背を預けた。
「アルトは」
その名が出た瞬間、
レオンハルトの表情がほんの僅かだけ硬くなる。
側近として、避けて通れない名前だ。
「王国ギルドのギルドマスター。王都に滞在中。
……陛下、彼は“祝勝の渦”に乗りません。
乗せても、意味がありません」
「英雄譚の外にいる英雄、か」
「はい。政治にとって厄介です。
ですが――今は、必要でもあります」
アルベルトは視線を上げる。
「そうだな」
「……帝国が次に置く議題は、
たぶん“英雄”ではありません」
レオンハルトは一拍置き、言葉を選ぶ。
「“呼ばれた理由”のほうです。」
「転生者――その扱いに、手を伸ばしてきます」
言葉が落ちた。
執務室の空気が、確かに冷える。
アルベルトは、
その一語を噛みしめるように言った。
「……転生者は、初めてではない」
「ええ。だからこそ、
帝国が“慣れている”ことが不気味です」
国王の視線が、報告書の文字列から外れた。
窓の外の祝勝の灯りへ向かう。
灯りは美しい。
だが美しいほど、闇は見えなくなる。
「レオンハルト」
「は」
「王政会議を前倒しで開く。
議題は三つ。瘴気残滓、帝国の静けさ、
そして――転生者」
「承知しました」
レオンハルトは深く頭を下げる。
その動きに迷いがないのは、
彼が“決める側”ではなく、
“決めさせる側”だからだ。
王都は祝っている。
だが、王国は祝えない。
終わったのではない。
形が変わっただけだ。
そして――その形を、
帝国が利用しようとしている。
執務室の空気は、
祝勝の夜とは別の重さで満ちていった。




