第44話 届いたものの輪郭
魔王アモンの一撃が、床を砕いた。
衝撃が走り、玉座の間が大きく揺れる。
瓦礫が舞い、視界が白く染まる。
それでも――
エリオたちは、崩れなかった。
「……全員、聞け」
エリオの声が、瓦礫の音を割って届く。
荒い息。
それでも、迷いはなかった。
「次で、決める」
「誰かが倒れても、手順は崩すな。――役割を守れ」
誰も問い返さない。
もう、分かっていた。
ここから先は、
全員が無事に終わる戦いではない。
それでも前に出る者。
支えることを選ぶ者。
退かず、危険を引き受ける者。
役割が、はっきりと定まる。
アモンは、その様子を見ていた。
「……ようやく、だな」
低い声に、嘲りはない。
「それでこそ、踏み潰す意味がある」
圧が、ひとつ段を上げる。
呼吸が浅くなり、詠唱の舌が重くなる。
立っているだけで、
足裏が床に“縫い付けられる”感覚。
アモンが――完全に戦闘態勢へ移行した。
――決着は、ここからだった。
玉座の間が、軋んだ。
いや――
城そのものが、応えた。
アモンが一歩、踏み出す。
その瞬間、床に刻まれた紋様が赤黒く輝き、
空間そのものが引き延ばされるように歪む。
魔力ではない。
威圧でもない。
世界の側が、従っている。
「……来るぞ!」
ロイスが叫ぶ。
次の瞬間。
アモンの影が、床に“沈んだ”。
黒い靄が一点に噛み合い、
空間が――紙のように“重なる”。
次の瞬間、距離が消えた。
走ったのではない。跳んだのでもない。
“歩く必要のある分”だけが、畳まれた
アモンは消えたのではない。
“歩く距離”そのものを縮め、
既に背後へ踏み込んでいた。
アモンの指先に、黒い刃が生える。
剣ではない。爪でもない。
“切る形”だけを持った、闇の刃。
横薙ぎ。
空気が裂け、遅れて床の石目がずれる。
エリオは反射的に剣を振る。
金属音が響き、衝撃が腕を貫く。
受け止めた――
はずだった。
だが、身体が宙を舞う。
「エリオ!」
ミラの声と同時に、魔法が発動する。
痛みを消す回復ではない。
足元の“拍”を整える。
呼吸、重心、踏み替え――
崩れるはずの順番だけを、揃え直す。
だから、倒れるはずの一拍が“発生しない”
(……今、倒れない)
その一瞬に、ロイスが割り込んだ。
剣を盾代わりに、エリオを受け止める。
「ぐっ……!」
衝撃で、膝が砕けそうになる。
アモンは、動きを止めない。
一歩、踏み込む。
踏み込むだけで、
周囲の瓦礫が宙に浮かび、粉砕された。
拳が、振るわれる。
空気が破裂し、衝撃波が走る。
セリスの術式が、寸前で展開される。
完全な防御ではない。
直撃を、ズラしただけ。
それでも、エリオたちは吹き飛ばされた。
壁に叩きつけられ、床を転がる。
「……っ」
息が、詰まる。
エリオは歯を食いしばった。
(このままじゃ――)
勝てない。
連携している。
役割も、分かれている。
それでも、
魔王の“土俵”に立てていない。
「――集中しろ!」
エリオが叫ぶ。
「ロイス、前に出るな! 受け止めるだけでいい!」
ロイスが、即座に応える。
「了解!」
「ティオ! 狙うのは動きじゃない!」
「……分かった!」
「セリス、拘束は捨てろ! 遅延だけでいい!」
セリスは一瞬、迷い――
すぐに、頷いた。
「短命術式に切り替える!」
ミラが、静かに息を吸う。
(私が……繋ぐ)
アモンは、そのやり取りを眺めていた。
「無駄だ」
淡々とした声。
「役割を分けたところで、力の差は埋まらない」
再び、圧が跳ね上がる。
だが――
勇者たちは、引かなかった。
次の瞬間。
ティオの矢が放たれる。
魔王の動きの“先”ではない。
魔王が次に立つ場所。
一拍遅れて、
セリスの術が空間を歪める。
遅延。
ほんの、瞬き一つ分。
その隙に。
エリオが、踏み込んだ。
剣が、振り下ろされる。
アモンは、初めて――
完全に受け止めた。
受けたのは、剣ではない。
伸ばされた右手、その指先。
「――っ」
エリオの刃が、掌に“噛んだ”。
金属が砕ける音ではなく、
瘴気が硬化して擦れる音がした。
アモンの掌を覆う黒い靄が、瞬間だけ“面”になる。
結界――迎撃でも防壁でもない。
刃が当たる“点”だけを横へ逃がす、薄い膜。
それでも、刃先は止まらない。
わずかに、ほんのわずかに。
黒い膜が削れ、アモンの表情が一段だけ変わった。
一瞬。
確かに、
勇者の刃が魔王を押した。
「……」
魔王アモンの口元が、僅かに歪む。
笑みではない。
だが――
「なるほど」
低く、静かな声。
「……ようやく、“組み上がった”か」
圧が、さらに増す。
城全体が、呻きを上げる。
魔王の本気領域が、完全に解放された。
――戦いは、最終段階へ入った。
圧が、限界まで高まる。
闇が、アモンの腕と脚に絡みつく。
筋肉を膨らませるのではない。
“動作の損失”だけを、黒が削り落としていく。
次の一歩が、跳躍ではなく――発射になる。
玉座の間はすでに戦場の形を保っていなかった。
床は裂け、壁は崩れ、
天井から瓦礫が落ち続けている。
それでも――
勇者たちは、前に出ていた。
「ロイス!」
エリオの声に、ロイスが一歩踏み出す。
迷いはない。
防ぐべきものは、分かっている。
アモンの拳が、振り下ろされる。
直撃すれば、終わり。
誰もがそう理解していた。
ロイスは、剣を両手で構え、正面から受ける。
金属音が弾け、
衝撃が全身を打ち抜く。
「――っ!」
膝が沈み、視界が揺れる。
それでも、倒れない。
今は、耐える時だ。
ミラが、詠唱を終える。
魔力を広範囲には回さない。
一点に集中させる。
時間を“止める”のではない。
“遅らせる”。
ほんの一瞬。
だが、その一瞬が――
次を繋ぐ。
「今!」
ティオの矢が放たれる。
狙いは胸でも喉でもない。
踏み込みの“足首”――次の一歩を作る関節。
矢は当たらない。
当てない。
避けさせて、踏み替えさせるための矢だ。
その踏み替え先に、
セリスの術式が“置かれていた”。
床に走る薄い光――円ではない。
歪んだ楕円の線が、足元の距離だけを狂わせる。
「……っ」
アモンの踏み込みが、半拍だけ“遅れる”。
そこでミラが息を飲み込み、両手を重ねた。
回復ではない。強化でもない。
味方の動作の“拍”だけを揃える、小さな補正。
ほんの一瞬、エリオの踏み込みが“早くなる”。
ロイスの割り込みが“間に合う”。
セリスの式が“崩れる前に仕事を終える”。
アモンが、初めて眉をひそめた。
「……小賢しい」
だが、動けないわけではない。
力で、踏み砕ける。
そう判断した瞬間――
エリオが、踏み込んだ。
剣を、両手で握る。
迷いはない。
(ここだ)
全員が作った、
この一瞬のために。
剣が、振り下ろされる。
アモンは、迎え撃つ。
刃と刃が激突し、
衝撃が空間を裂く。
エリオの腕が、悲鳴を上げる。
それでも、
剣を離さない。
「……!」
アモンの力が、押し返す。
圧が、勇者を押し潰そうとする。
だが。
ロイスが、再び踏み出す。
倒れる寸前の身体で、
アモンの一撃を“ずらす”。
ミラが、最後の魔力を注ぎ込む。
セリスの術が、限界を超えて歪む。
ティオが、最後の矢を放つ。
すべてが、
一つの“角度”に収束する。
ロイスが、倒れかけた身体で踏み込む。
受け止めない。切り結ばない。
拳の軌道を、ほんの指一本ぶん外へ滑らせる。
アモンの拳が空を打つ。
その瞬間だけ、胸元の黒い膜が薄くなる。
“抑え込み”が、腕へ寄ったからだ。
セリスの短命術式が、そこで裂ける。
足元の距離が一瞬だけ狂い、
アモンの体幹が「踏ん張れない」。
ティオの最後の矢が、頬を掠めた。
傷にはならない。
だが視線が、反射で“そちら”を見る。
その半拍を――ミラが繋ぐ。
時間を止めない。
ただ、“今この瞬間だけは間に合う”ように、
味方の拍を揃える。
「――ここだ」
エリオが踏み込んだ。
刃を突き出すのではない。
体ごと、剣ごと、前へ“置く”。
いつもなら――ずらして終わる。
受けずに、当たり判定そのものを滑らせる。
だが今は、滑らせるための“一歩”がない。
距離は狂い、体幹は浮き、視線は逸れた。
黒い膜が、遅れて戻る。
間に合わない。
刃先が肋の間へ滑り込み、
瘴気の膜と肉の境目を、一直線に裂いた。
“止まるはずの抵抗”が、遅れて来る。
それを、エリオは腕ごと押し切る。
エリオの剣が――
アモンの胸を、確かに貫いた。
沈黙。
アモンは、しばらく立っていた。
剣を受け止めたまま、
視線を、エリオに向ける。
「……なるほど」
声は最後まで、静かだった。
怒りも、悔恨もない。
「選び切ったか」
それは賞賛ではない。
強者が、強者として与える判定だった。
剣を、ゆっくりと見下ろす。
「強さとは、こういうものだ」
アモンは、最後まで背筋を伸ばしたまま、
倒れなかった。
崩れるように、
その存在が、霧散していく。
「魔族が、至上だという考えは」
消えゆく声。
「今も、変わらない」
それでも。
「……選ばれたのは」
一瞬、
ほんの一瞬だけ。
「――お前たちだ」
アモンの姿が、完全に消えた。
しかしアモンが消えた、その直後。
玉座の間に残っていた瘴気が、
突如として脈動した。
「……っ」
エリオが息を呑む。
黒い靄が、壁や床から滲み出す。
濃度が、一瞬だけ跳ね上がった。
まるで――
主を失った獣が、暴れようとするかのように。
「まずい……!」
ロイスが剣を構える。
だが、その直後だった。
瘴気が、留まった。
いや、違う。
引き裂かれるように、霧散し始めた。
「……?」
ミラが、震える声を漏らす。
瘴気が留まった――のではない。
城の外へ“抜け始めた”。
床の紋様が、ゆっくりと脈を打つ。
いままで玉座の間に溜め込まれていた黒い靄が、
排水溝のような細い術式へ吸われていく。
「……核が、消えた」
セリスが、かすれた声で言う。
ミラは理解する。
これは浄化じゃない。
ただ――
一箇所に押し込めていた圧が抜けただけだ。
アモンは、瘴気を消せない。
だが、抑え込めるだけの“器”ではあった。
その器が砕けた今、瘴気は城に残り続けられず、
外へ散る。
「……だから、倒す必要があった」
エリオの声が、静かに落ちる。
「暴走する前に、倒す必要があった……」
暴走する前に。
抑えが効かなくなる前に。
“器ごと”終わらせるしかなかった。
答える者はいない。
だが、誰も否定しなかった。
瘴気は、完全には消えない。
しかし――
制御を拒むほどの濃度では、もうない。
玉座の間に、静かな風が通り抜ける。
長く張り詰めていた空気が、
ようやく、解け始めていた。
誰も、すぐには動かなかった。
エリオは、剣を下ろす。
息が、荒い。
ロイスが、膝をつく。
ミラは、その場に座り込む。
セリスは、術式の反動で意識を失いかけていた。
ティオが、深く息を吐く。
「……終わった」
その言葉を、
誰も否定しなかった。
魔王は、倒れた。
だが――
世界は、まだ続いている。




