第43話 魔王の圧、勇者の型
誰も、すぐには動かなかった。
剣を構える者も、詠唱に入る者もいない。
それは恐怖ではない。
判断が追いついていなかっただけだ。
――というより、
瘴気が肺の奥に薄くまとわりつき、
思考の立ち上がりを鈍らせていたのかもしれない。
「来ないのか」
問いではなかった。
事実の確認ですらない。
――ただ、待っている。
その態度が、
この場に立つ全員に同じことを突きつけていた。
自分たちは、戦いを選べているのか。
エリオは一歩、前に出た。
「……行くぞ」
声は、震えていない。
だが確信もなかった。
それでも剣は振り上げられる。
仲間が動き、陣形が組まれる。
勇者として、正しい動き。
そのすべてを、
魔王は――
アモンは、胸の前で指を組んだ。
立ったまま。
まるで祈りの形
――だが祈っているのは神ではなく、
自分の内側で騒ぐ瘴気の方だった
エリオの合図と同時に、陣形が動いた。
最前に出るのはロイス。
迷いなく距離を詰め、剣を振るう。
鋭い斬撃。
一切の無駄がない、完成された一振りだった。
――当たった。
だが、刃が肉に届く直前、
肩口の周囲で黒い靄が“薄い膜”になって膨らんだ。
斬撃が、空気を裂いたはずなのに
――最後の一寸だけ、滑らされる。
「……浅い」
ロイスの口から、思わず声が漏れる。
刃はアモンの肩口を掠めていた。
血も、裂傷もある。
それでも、
致命には程遠い。
アモンは、わずかに視線を落としただけだった。
「次」
その一言が、合図になる。
ティオの矢が飛ぶ。
死角を突く、精密な一射。
同時に、セリスが魔力を展開する。
空間を歪ませ、動きを縛るための術式。
ミラは後衛から、流れを支える。
呼吸の拍を、ほんの一瞬だけ揃える。
エリオの踏み込みが“半拍”早まり、
受けの角度が間に合う。
――完璧な連携。
だが。
矢は届く直前、
アモンの足元から立ち上がった瘴気が
“風”のように巻き、軌道を撫でて逸らした。
セリスの術式は成立した。
床に光が走り、広間の重さが一瞬だけ“噛む”。
それでもアモンの動きは、止まらない。
「……通ってるのに、止まらない?」
否。
通っている。
ただ――その上から、押し潰されている。
「それで終わりか」
アモンが玉座を離れ、
ただ一歩、床を踏む。
それだけで、空気が変わった。
圧が、降りる。
魔力ではない。
威圧でもない。
存在そのものが、戦場に立った感覚。
「勇者」
視線が、エリオを捉える。
「連携は良い」
「判断も、速い」
評価するような口調。
「だが――」
一歩、前。
「それは“対等”を前提にした戦いだ」
エリオは、剣を構え直す。
「……なら、どうすればいい」
問いは、弱さからではなかった。
試すための問いだ。
アモンは、答えなかった。
代わりに――
床が、砕けた。
一歩、踏み込んだだけで、
玉座の間に衝撃が走る。
ロイスが、咄嗟に受けに回る。
剣が、弾かれた。
体ごと、後ろへ吹き飛ぶ。
「ロイス!」
セリスが叫び、術を組み替える。
間に合わない。
――そう思った瞬間。
アモンは、追撃しなかった。
殺すのが目的なら、今ので終わっている。
彼は止まり、倒れかけたロイスを“見た”。
「今のが――」
低く、淡々とした声。
「貴様らの限界だ」
勇者たちは、理解した。
自分たちは――
まだ、魔王と同じ土俵に立っていない。
ロイスが体勢を立て直す。
吹き飛ばされた衝撃は残っている。
だが、剣はまだ握れていた。
「……まだ、動ける」
誰に向けた言葉でもない。
それでも、声に出した。
アモンは、その様子を見ていた。
追撃しない。
距離も詰めない。
ただ、立っている。
「その程度か」
低く、断定する声。
「ここまで来て、それだけか」
侮蔑ではない。
失望ですらない。
――事実の確認。
エリオは、息を整えながら剣を構え直した。
(違う……)
今までの戦いと、同じ感覚で振るっても届かない。
速さでも、威力でもない。
噛み合っていない。
「ロイス」
短く呼ぶ。
「前に出るのは、俺がやる」
ロイスが一瞬、目を見開いた。
「エリオ――」
「――受け止める。俺が、受け止める」
迷いのない声。
それは命令ではない。
選択だった。
ミラが、すっと半歩下がる。
(……支える。治すんじゃない。崩れない“拍”を作る)
彼女は杖を構えない。
代わりに胸の前で指を組み、息を整えた。
短い祝詞。熱でも光でもない
――鼓動と呼吸のタイミングだけが
揃っていく感覚が、前衛へ伝わる。
ティオが弓を引き絞り直す。
(隙を作る。刺す場所は――“剣が噛んだ一瞬”だけ)
矢は一本。だが弦の震えが二段になる。
放たれた矢は一直線ではなく、
空気の薄い筋を滑るように低く走った。
セリスは詠唱を短く切る。
(止めるんじゃない。遅らせる。足を――半拍だけ)
床へ指先を落とすと、
玉座の間の石目に沿って淡い線が広がった。
拘束ではない。結界でもない。
踏み込みの“最初の一歩”だけを重くする、
遅延の術式。
アモンは、その変化を見逃さない。
「ほう」
わずかに、興味を示す声。
「――遅い。だが、ようやく“形”になったか」
次の瞬間。
アモンが踏み込む。
先ほどより速い。
踏み出した足元で、瘴気が薄く脈打ち、
黒い膜が床から立ち上がる。
しかし――エリオは動けた。
ミラの支援で、重心が崩れない。
受けの角度が“間に合う”。
剣を正面から受ける。
衝撃が、腕を痺れさせる。
刃同士が噛み合った瞬間、
金属音ではなく、骨に響く鈍い圧が来た。
膝が沈む。
――だが、倒れない。
「今だ!」
その声と同時に、ティオの矢が走る。
刃と刃が噛み合った一瞬だけ、
瘴気の膜が薄くなる。
矢はその“隙間”に滑り込み、アモンの脇腹へ――
だが、当たらない。
当たる直前、瘴気が風のように巻いて、
矢の軌道をほんの指一本分だけ撫でて逸らす。
「……っ」
ティオが舌打ちしかけ、飲み込む。
(逸らされた。でも――逸らさせた)
その“逸らす動き”の一瞬。
セリスの術式が噛む。
床がわずかに沈み、
アモンの踏み込みの起点だけが重くなる。
アモンの足元が、半歩ずれた。
玉座の間に、軋む音が走る。
空気が、ひと呼吸ぶんだけ軽くなる。
「……」
アモンは、初めて無言になった。
次の瞬間。
圧が、跳ね上がる。
瘴気が“膜”から“柱”へ変わり、
視界の端が黒く滲む。
アモンの一撃が、エリオを弾き飛ばす。
今度は、受けきれなかった。
剣ごと、身体が浮く。胃が置いていかれる。
だが。
「エリオ!」
ロイスが割り込む。
受ける――のではない。受けて“流す”。
剣の角度をずらし、衝撃を横へ逃がす。
それでも吹き飛ぶ。
だが、
エリオが壁に叩きつけられるより先に――
ミラの支援が、再び拍を揃える。
倒れる“前”に、立て直す“瞬間”が来る。
セリスの術が、間に割って入る。
今度は床ではなく空中に、薄い線の格子。
追撃の踏み込みを“迷わせる”だけの、短い妨害。
連携は、まだ荒い。
だが、役割は――定まり始めていた。
アモンは、静かに息を吐いた。
「……悪くない」
評価ではない。
承認でもない。
「だが」
一歩、前へ。
「それでも、足りない」
「弱い者が、徒党を組んだだけだ」
「群れたところで、強さにはならん」
視線が、エリオに突き刺さる。
「――だが」
「生き残る意思だけは、測れる」
「この先に進みたければ――」
アモンの影が、床に広がる。
「選び続けろ」
「それが出来ぬなら」
低く、はっきりと。
「ここで、潰れろ」
圧が、戦場を覆う。
勇者一行は、誰一人として引かなかった。
剣を握る。
魔力を練る。
――戦いは、終わらない。
むしろ。
ここからが、本当の始まりだった。




