第42話 引き返せない玉座
遥か彼方、魔帝国。
玉座に座る幼い皇帝――リリスは、
指先で肘掛けを軽く叩いた。
退屈でも苛立ちでもない。
ただ、時間の進みを確かめる癖のような動き。
「……ここまで、来たか」
呟きは小さい。
だが、その一言にだけは温度があった。
前の転生者たちは、もっと手前で折れた。
戦線で、あるいは“歪み”の前で。
玉座の間まで辿り着いた者は――いない。
リリスは視線を落とす。
自分が用意した盤面。
自分が押し付けた流れ。
それでも――
“あれ”が暴れ出す前に、
ここまで持って来られたのは、
確かに初めてだった。
「後は――君たちの番だ」
それは命令ではない。
導きでも、祝福でもない。
世界の流れを見届ける者の確認だった。
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魔王城。
城門を越えた瞬間から、空気が重くなる。
剣で受ける圧ではない。
魔力とも違う。
肌の上に薄い膜が張り、
呼吸のたびに喉の奥へ苦さが触れる。
ミラが、唇を押さえた。
(……匂い)
鼻先に残るのは、鉄ではない。
血でもない。
湿った土と、焦げた布と、
薬の残り香が混ざったような――“嫌な”気配。
「……瘴気、だよな」
ティオが小さく言う。
言葉にすると、余計に空気が濃くなる気がした。
「見えないのに、いる」
セリスが、短く息を吐いた。
魔法の感覚で探る。
だが、瘴気は魔力の流れに綺麗に乗らない。
“世界の隙間”に染みている。
エリオは前を見る。
真っ直ぐに伸びる回廊。
瓦礫もない。血痕もない。
整いすぎていて、逆に落ち着かない。
(戦いの跡がないんじゃない)
(最初から――戦わせる相手を選んでいる)
そう思った瞬間、背中の汗が冷えた。
ロイスが歩調を落とす。
無意識に剣の柄に触れた。
「静か、すぎる」
「うん」
エリオが頷く。
五人の足音だけが響く。
それが妙に、場違いに聞こえた。
回廊の奥。
ひとつだけ扉がある。
重厚だが、威圧する飾りはない。
鍵も、守りも、罠の印もない。
ただ――向こう側から
“見られている”感覚だけがある。
エリオは、扉の前で息を吸った。
勇者として召喚されてから、
何度も「魔王を倒す」という言葉を聞いてきた。
だが、今ほど――
その言葉が現実として迫ってきたことはない。
(本当に、ここまで来たんだな)
胸の奥が、静かに重くなる。
恐怖ではない。
逃げたいわけでもない。
ただ、
もう引き返せない場所に立っているという実感。
「……エリオ」
ミラが、小さな声で呼びかける。
「大丈夫?」
エリオは一瞬だけ視線を落とし、
すぐに顔を上げた。
「大丈夫だ」
そう答えながら、
自分自身にも言い聞かせる。
「ここまで来た。行くしかない」
仲間たちは、それ以上何も言わなかった。
誰もが分かっている。
この先にいるのは、
魔王。魔族の王。
この世界の脅威。
そして――
勇者が討つべき存在。
エリオは、扉に手をかけた。
その手のひらに、冷えた石の感触が吸い付く。
――開けるのは、俺だ。
扉は、軋みも抵抗もなく、静かに割れた。
まるで“最初から開かれる側”
として用意されていたように。
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重厚な扉が、静かに開いた。
軋む音はない。
まるで、最初から開かれることを
前提にしていたかのように。
広間は、玉座の間と呼ぶには簡素だった。
豪奢な装飾も、威圧のための彫像もない。
高い天井と、無駄に広い空間。
その中央。
黒い玉座に、ひとりの男が座っていた。
黒い外套。
纏う気配は、どこまでも落ち着いている。
巨大でも、異形でもない。
だが、近づいた瞬間に理解する。
(……違う)
同じ形をしていながら、決定的に人ではない。
空気の重さが、一段沈む。
さっきまで喉に触れていた苦さが、
今度は肺の奥にまで入り込んでくる。
(濃い)
瘴気は、ここに“溜まっている”のではない。
魔王の存在そのものから、静かに漏れている。
玉座の上の存在が、ゆっくりと視線を上げた。
その目が合っただけで、空気が一段沈む。
その視線は刃ではない。
怒りでもない。
獲物を見る目とも違う。
ただ――選別。
「来たか」
声は低い。
それだけで、足元の石が――ほんのわずか
“整う”気配がした。
エリオは、喉が鳴るのを堪えた。
足は止めない。
止めれば、ここで終わる。
「俺は、勇者エリオだ」
名乗りは、覚悟の証明だ。
自分を立たせる杭。
魔王は、ゆっくりと口角を上げる。
「勇者」
その言い方に、敬意はない。
価値の測定があるだけ。
「我が名は――アモン」
その瞬間。
名前の“重さ”が空間に刻まれ、
遅れて――瘴気が脈打った。
見えない波が広間を撫で、
五人の皮膚に鳥肌が立つ。
ミラが一歩、踏み止まる。
(……これ、吸い込んだら)
(身体だけじゃなく……心も、削られる)
セリスは歯を噛んだ。
魔法の理屈が通らない。
通させない“圧”がある。
ロイスは気づく。
魔王の落ち着きは、余裕ではない。
――抑え込みだ。
アモンは、座したまま指を組む。
静かだ。
理性がある。
だが、指先のわずかな震えが――それを裏切る。
彼は自分の内側で、瘴気が騒ぐのを感じていた。
喉の奥が熱い。
胸の内側が痒い。
“吐き出せ”という衝動が、骨の間から押し上がる。
(……まだだ)
アモンは、目を細める。
「貴様らがここまで来たことだけは、認めてやる」
褒めていない。
事実の確認だ。
「だが」
アモンの声が、少しだけ低くなる。
「人族が踏み込んで良い領域ではない」
「ここに来た理由を、理解しているか?」
その言葉と同時に、床が“応えた”。
目地が揃い、広間の境界が閉じる。
逃げ道はない。
最初から、そういう部屋だった。
「魔王アモン。お前を倒すためだ」
即答だった。
迷いはない。
アモンは、その言葉を否定しなかった。
「そうか」
アモンは、ゆっくり立ち上がった。
玉座の段を一つ降りるだけで、
空間の密度が変わる。
そして――一歩、前に出る
その瞬間、空間の密度が変わった。
空気が重くなる。
呼吸が、わずかにしづらくなる。
(……圧が、違う)
ロイスが歯を食いしばる。
セリスは無言で魔力を整え、
ミラは静かに祈りの構えを取った。
ティオが、槍を握り直す。
アモンは、勇者一行を見渡す。
「人は、数で群れる」
「弱いからだ」
淡々とした口調。
冷えた断定。
「魔族は違う。強きものが立ち、弱きものは従う」
「それが秩序だ」
エリオは剣を握りしめた。
「……だから、人を滅ぼすと?」
アモンは、首を横に振った。
「滅ぼす?」
「違う」
一瞬、目が細められる。
「淘汰する」
「生きるに値しないものが消え、
生き残るに足るものだけが残る」
「それだけの話だ」
その言葉に、ティオが声を荒げた。
「そんなの、勝手すぎる!」
アモンは、視線を向けない。
「勝手?」
「世界は、誰のために在る?」
問いではない。
答えを求めていない。
「強者のためだ」
エリオは、はっきりと理解した。
(分かり合えない)
説得も、交渉も、意味がない。
この魔王は、最初から“そういう存在”だ。
エリオは一歩、前に出た。
「俺たちは、ここでお前を止める」
アモンは、初めて微かに笑った。
「勇者」
その声には、嘲りも、期待もない。
「力を示せ」
「それが、世界の答えだ」
「来い」
その一言で、瘴気がもう一度だけ脈打つ。
理性の表面に、何かが滲む。
五人は理解する。
この魔王は、落ち着いているのではない。
落ち着かせている。
壊れる寸前のものを、ギリギリで。
そして――
その“ギリギリ”の上で戦うことが、
こちらに課された戦場だ。
空間が、軋んだ。
戦いが、始まる。




