第37話 歪域の終端
一方。
崩壊域。
そこは戦場と呼ぶには、
あまりにも整いすぎていた。
瓦礫はある。
瘴気も、薄く漂っている。
だが――
破壊の痕跡だけが、意図的に整理されている。
「……おかしい」
セフィラが、低く言った。
結界を張る必要はない。
敵意も、攻撃衝動も感じられない。
それでも、
術式の“座標”が合わない。
手順は正しいのに、
世界側の受け口だけが、わずかに変わっている。
「魔法が壊されているわけじゃない」
「前提が……微妙に、ずらされている」
空間そのものが、
「魔法を使うための世界」
であることを、拒んでいる。
「研究室みたいだな」
アルトの言葉は、冗談ではなかった。
事実として、
ここは“戦場”ではなく“実験場”に近い。
その中心に、アグリオスは立っていた。
《変成卿》アグリオス。
姿形は、これまでと変わらない。
理性も、明確に保たれている。
彼は、こちらを見ていた。
「来たか」
声音は落ち着いている。
敵意も、挑発もない。
「……戦うつもりはない?」
レイナが、半歩前に出ながら問いかける。
剣は抜いていない。
だが、いつでも踏み込める距離だ。
アグリオスは、首を横に振った。
「君たちと争っても、結論は変わらない」
「私は、確認に来ただけだ」
「既に、必要な仮説は揃っている」
セフィラの眉が、わずかに動く。
「仮説?」
「世界は、均一化へ向かう」
アグリオスは淡々と続けた。
「選択肢が多すぎること自体が、歪みだ」
「瘴気は、その偏りを“均す”方向に働く」
「私にとっては――便利な圧力だ」
その言葉に、
セフィラの《術式解析》が、嫌な反応を返す。
《術式解析》は、
魔法を“現象”ではなく“設計図”として読む。
結界・術式・法定の接点、流れ、
前提条件――骨組みが見えてしまう。
(……理解、できてしまう)
理論として、成立している。
成立してしまっている。
読めるということは、
相手の規則に思考が同調するということでもある。
構造が綺麗であればあるほど、
反射的に「正しい」と認めてしまう。
(これは――危ない)
気づけば、視線が“接点”へ寄っている
――触れてはいけないのに。
「だから、君は世界を削っている」
アルトが、静かに言った。
アグリオスは、否定しなかった。
「削る、という表現は正確ではない」
「不要な揺らぎを、除去しているだけだ」
「それは“更新”じゃない」
アルトの声は、低く、しかし断定的だった。
「過去を持たない変化は、進化じゃない」
「ただの上書きだ」
その瞬間。
アグリオスの視線が、
初めてアルトを正面から捉えた。
「……君は」
興味。
警戒ではない。
「面白い観測者だ」
《統治者の残響》が、微かに脈動する。
空間のあちこちに、
見えないはずの継ぎ目――
「直した跡」がちらつく。
誰かが触った世界は、
触られていない世界と同じ顔をしない。
――これは敵ではない。
――だが、放置できる存在でもない。
「結論は出ている」
アルトは、剣に手をかけた。
「君は、この世界に“留まれない”」
「そうか」
アグリオスは、静かに目を閉じる。
拒絶も、抵抗もない。
「ならば、次の段階に進もう」
アグリオスが、ゆっくりと瞼を上げた。
攻撃の色はない。
だが――空間の“意味”が、静かに変わり始める。
足元の土が、砂ではなく、硝子の粉へと変わった。
粒が揃いすぎている。
踏んだ瞬間、靴底がわずかに滑る。
「……地面が、書き換わった」
レイナが低く言う。
踏み込みの“当たり前”が消えるだけで、
剣士は半歩遅れる。
次いで、空気が鳴った。
音ではない。
圧が、線になる。
見えないはずの気流が、
細い刃のように走り、レイナの頬をかすめる。
血ではなく、熱だけが遅れて滲む。
(切ってないのに、切られた……?)
「攻撃じゃない」
アグリオスの声は穏やかだ。
「検証だよ」
「君たちが、“どこまで世界を許容できるか”の」
セフィラが、指先を動かす。
魔力を撃つのではなく――置く。
床に、薄い光点が二つ。
それだけで、区画の魔力の流れが“落ち着く”。
滑っていた硝子砂が、急に“地面”として戻る。
ただし、完全ではない。揺らぎが、まだ残る。
「……干渉の中心が、移る」
セフィラの声が短い。
「固定できない」
「書き換えが、連続」
アグリオスは、指を鳴らした。
今度は、距離が壊れる。
近づいたはずの一歩が、届かない。
引いたはずの半歩が、逆に吸われる。
空間が伸び縮みしている――というより、
“近い/遠い”の定義そのものが入れ替わっている。
「……面倒くさい」
レイナが舌打ちし、剣を水平に払った。
斬ったのは、相手ではない。
“狂った距離”の境目だ。
空気が裂ける音がして、
歪みが一瞬だけ正しくなる。
だが、その瞬間を狙うように、
アグリオスの変成が重なる。
今度は、光。
天井から降るわけではない。
空間の任意の点に、淡い発光が“生まれる”。
――魔法陣ではない。
――警告灯でもない。
あれは、爆ぜる“前兆”。
アグリオスが一歩、踏み出す。
――世界が、もう一段だけ静かになる。
静かすぎる。
音が落ちる前の“余白”が、増えた。
レイナの呼吸が、わずかに遅れる。
(……間合いじゃない)
踏み込みの“前”に、結果だけが先に置かれる。
剣士の身体が頼りにしている順番――
「感じる → 動く」の順序が、ねじれていく。
「来る」
アルトが、低く言った。
魔力の奔流ではない。
瘴気でもない。
“決まってしまう”感触。
次の瞬間、光点が弾けた。
熱風ではなく、位相のズレが広がる。
触れた場所だけ、材質が変わる。
石が水のように柔らかくなり、
逆に水分が刃のように固まる。
避け損ねれば足首から持っていかれる類の変成だ。
セフィラが、薄い光点を置く。
静置式。
攻撃ではない。
「ここから先は通らない」という境界を、
世界に静かに提示する。
変成の波が、そこで“収まる”。
ぶつかったわけでも、相殺したわけでもない。
入るべき場所を失って、形を解く。
アグリオスが、ほんの少しだけ目を細めた。
「……置き方が、上手い」
褒めているのに、温度がない。
研究者の観察だ。
「でも、まだ足りない」
彼が指を鳴らす。
空間の“順番”が、もう一段、崩れる。
レイナが半歩踏み込んだ瞬間、
刃が届く“はずの距離”が、後ろへずれる。
「……っ」
当たらない。
当たる前提で組んだ身体のリズムが、空振りする。
アルトの視界が、わずかに揺れた。
(――因果の並び替え)
「理解できる」
セフィラが短く言う。
「でも、理解したら呑まれる」
「ここは、遮断」
「――封界」
短く、抑えた声。
「対象限定。干渉遮断」
結界が、アグリオスを包み込む。
薄い光の膜――ではない。
空間そのものが、
静かに「ここから先を別にする」と宣言している。
アグリオスは、その内側で目を細めた。
「無意味だよ」
声は穏やかで、怒りがない。
「私は、変化そのものだ」
「囲ったところで――この世界は、私を拒めない」
指先が動く。
結界の内壁が、わずかに“書き換わる”。
硬いはずの境界が、柔らかく、滑らかに、
通路に変じていく。
――抜け道を作る。
破壊ではない。
干渉の規則を“別の規則”に置き換える。
セフィラが、即座に一言だけ落とした。
「静置」
光点が幾つも置かれ、
抜け道になりかけた箇所が「収まる」。
通路は通路になれず、
空間は“その場に留め置かれたまま”固まった。
アグリオスは、少しだけ笑った気配を残す。
「……置く、か」
「君は本当に、世界と喧嘩しない」
そして、次の瞬間。
結界の内側が、歪む。
床が波打ち、空気が板のように層を成す。
熱も冷気もない。
ただ、“材質”と“順序”だけが狂う。
レイナの足元が、一瞬だけ「水」になり、
次いで「硝子」になる。
踏み込めば割れる。止まれば沈む。
――剣士殺し。
動きを縛り、判断を遅らせるための変成。
アルトが一歩、前へ出た。
「変化には、履歴が要る」
言葉が落ちた瞬間――世界に、傷跡が浮いた。
アグリオスがこれまで触れてきた“書き換え跡”。
重ねられた変更、塗り替え、上書き、再定義。
それが、一本ずつ、視界に立ち上がる。
《統治者の残響》が、起動する。
音はない。
だが、世界の“改竄の癖”だけが、輪郭を持った。
傷跡が、線になる。
塗り替えた順番が、矢印になる。
そして――
どこからどこまでが
「嘘の上書き」かが、透けて見える。
アルトが踏み込むと同時に、
その“線”へ釘を打つように固定した。
否応なく、順序が「元の順」に戻されていく。
波打っていた床が、床として固まる。
層になっていた空気が、空気としてほどける。
「――動けるのは、履歴があるうちだけだ」
空間が、軋んだ。
アグリオスの身体が、初めて揺れる。
揺れたのは肉体ではない。
“可変である権利”そのものが、足を取られた。
「……ああ」
その声には驚きよりも、納得が混じっていた。
「そうか」
「私は……進みすぎたのか」
アグリオスは、
結界の内側で、もう一度だけ指を動かす。
今度は逃げ道ではない。
“壊す”でもない。
ただ、最後の確認のように。
世界の端を、そっと撫でる。
「私はね」
「守りたかったんだ」
言葉は静かで、
誰かに言い訳をする調子ではなかった。
「変わり続けるものは、いずれ崩れる」
「だから、止めたかった」
アルトは答えない。
セフィラも、言葉を挟まない。
レイナだけが、剣を構える。
「終わりだ」
踏み込む。
剣が、結界の内側へ叩き込まれる。
――斬撃ではない。
刃が描いたのは、“線”だった。
切る線ではなく、境界の線。
レイナの一太刀が、アグリオスの存在に
「ここから先へは出ない」を刻む。
セフィラの静置式が、その線を“その場に置く”。
アルトの固定が、逃げるための変化を許さない。
破壊ではない。
切断でもない。
隔離。
アグリオスの存在から、
世界へ伸びる“触手”だけが剥がれ落ちる。
触れられない。
書き換えられない。
干渉できない。
――在る。
だが、届かない。
アグリオスは、息を吐いた。
安堵のように。
長い間、ようやく肩から荷が降りたように。
「……ありがとう」
最後に、彼はそう言った。
「止まれる場所を、くれた」
歪んでいた空間が、
ゆっくりと、本来の形を取り戻していく。
風の抜け方が変わり、
音の反響が、当たり前の形になった。
ここはもう、実験場ではない
結界が、完全に閉じた。
軋んでいた空間は、嘘のように静まり返る。
歪みは消え、距離は正しく戻り、
魔法は“本来の速度”を取り戻していた。
「……終わった、か」
レイナが、剣を納める。
「……勝った、って感じじゃないね」
切った感触はない。
勝った手応えもない。
それでも――
確かに、何かが“終わった”ことだけは分かった。
「討伐、とは言えないな」
アルトの言葉は、確認に近かった。
「うん」
セフィラは、
結界があった場所から視線を外さずに答える。
「存在は消えていない」
「ただ……世界に干渉できなくなっただけ」
“消した”のではない。
世界に触れるための“接点”だけを、閉じた。
結界があった場所には、何も残らない。
血も、残骸も、痕跡も。
ただ――薄い継ぎ目が残った。
世界と世界の縫い目のような、
目を凝らすと分かる程度の線。
セフィラが、その線へ指を寄せる。
触れない。触れさせない。
けれど、《術式解析》の“癖”が、
無意識に距離を詰める。
「……残滓。微量」
「干渉の余熱だけ。本人は届かない」
彼女は小さな光点を幾つか置いた。
派手に輝かない、ただ“そこに留まる”標。
「揺れたら分かる」
「同じ歪みを見逃さないため」
(……理解できてしまう)
合理的で、破綻がない。
だからこそ、危険。
「セフィラ」
アルトの声が、現実に引き戻す。
「大丈夫か」
一瞬、言葉に詰まり――
彼女は、短く頷いた。
「問題なし」
「少し……近づきすぎた、だけ」
レイナが、肩をすくめる。
「研究者気質が出た?」
「否定しない」
セフィラは、それ以上言わなかった。
沈黙が落ちる。
遠くでは、
勇者側の戦いが終わった余韻が、まだ漂っている。
歓声はない。
だが、空気は確実に変わっていた。
「……勇者は、勝ったな」
アルトが、ぽつりと呟く。
「ええ」
「ヴァルガスは、強かった」
「でも……役割が噛み合った」
それは、勇者一行が
“勇者として成立した”瞬間だった。
「問題は、ここからだ」
アルトの視線が、前方――
魔王アモンの居城がある方向へ向く。
「……静かだ」
セフィラが吐く息は、まだ白くならない。
それが逆に、不自然だった。
「勝った音がしない」
レイナが短く言う。
軍は崩れていない。
指揮も、混乱していない。
「血戦公ヴァルガスを倒し」
「変成卿アグリオスの影響を止めた」
切り捨てられたとは思えない。
だが、守られもしなかった。
「あるいは――」
アルトは、少しだけ言葉を選んでから続ける。
「“使い切る”つもりなのかもしれない」
「アモンは、思想の魔王」
セフィラが、淡々と分析する。
「力で勝つことより」
「“正しい流れ”であることを重視している」
「だとしたら……」
レイナが、剣の柄に触れた。
「次は、真正面だな」
アルトは、ゆっくりと頷いた。
「勇者が前に出る」
「俺たちは――崩れないように、外から支える」
三人は、同じ方角へ歩き出した。
「もう、偶然じゃない」
「そうだね」
セフィラが、短く答える
「これは、選んだ介入」
その言葉に、
《統治者の残響》が、静かに応えた。
――選択、確定。
――責任、引き受け。
遠く。
魔王の居城の方角で、
何かが、わずかに動いた気配がした。
それはまだ、敵意でも殺意でもない。
ただ――
観測。
「……来るな」
アルトは、剣を握る。
「次は、魔王だ」
その言葉は、宣言ではなかった。
避けられない事実として、
静かに、そこに置かれただけだった。




