第35話 二つの脅威
最初に崩れたのは、陣形ではなかった。
魔王国軍の動きが、
ほんの一拍だけ、遅れた。
誰かが失敗したわけではない。
だが、判断が“揃わなかった”。
その刹那を、
勇者も、アルトたちも、見逃さなかった。
「……来るな」
低い声が、戦場に落ちる。
次の瞬間、
前線の空気が、はっきりと変わった。
それまでの魔王国軍の動きとは違う。
圧がある。
魔力でも、瘴気でもない。
純粋な――敵意。
エリオは、直感した。
これまでとは、質が違う。
「……本物が、出てくる」
その言葉が終わるより早く、
魔王国軍の隊列が割れた。
前線の中央。
軍勢の奥から、
一人の影が歩み出る。
足音は重い。
一歩ごとに、地面が鳴る。
「……っ」
ロイスが息を呑む。
あの影が前に出ただけで、
周囲の魔王国軍の気配が変わった。
守る。
道を開ける。
“この者を通すため”の動き。
エリオは剣を握り直した。
逃げ場はない。
退く選択肢もない。
「前に来る……!」
その瞬間。
少し離れた場所で、
アルトが即座に判断を下す。
「――分岐する」
迷いはなかった。
「前線は、勇者に任せる」
短く、だが明確な指示。
「レイナ」
「了解」
レイナは一歩前へ。
剣を抜かない。
だが、いつでも踏み込める位置。
「セフィラ」
「後方、歪み」
即答。
「魔術系。
別の“手”が動いてる」
アルトは視線を戦場の端へ向ける。
そこでは、
魔王国軍の一部が不自然に動いていた。
攻めない。
だが、空間が――歪んでいる。
「……来たな」
アルトは、低く呟く。
「エリオ」
アルトは、勇者を一瞥する。
視線が合う。
短い、だが十分な時間。
「前は任せる」
それだけ告げる。
エリオは、深く頷いた。
「……分かりました」
剣を構え直す。
目の前の影から、
視線を逸らさずに。
「ここは、俺たちが止める」
アルトは背を向ける。
「行くぞ」
「了解」
セフィラが応じる。
レイナも、無言で続いた。
戦場は、完全に二つに割れた。
前線では、
勇者と“武”の圧が向かい合い。
裏側では、
見えない戦いが始まろうとしている。
この瞬間、
戦争は――
本当の意味で、始まった。
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前線の空気が、完全に変わった。
魔王国軍の隊列が、わずかに割れる。
その中央を、重い足取りで進む影があった。
剣はまだ抜かれていない。
だが、存在そのものが圧となって、
地面を沈ませる。
「……来た」
エリオは、剣を握り直した。
逃げ場はない。
退く理由もない。
影は、勇者一行の前で足を止める。
「魔王国軍第一将軍」
低く、はっきりとした声。
「《血戦公》ヴァルガスだ」
名が落ちた瞬間、
周囲の魔王国軍が一斉に距離を取る。
守るためではない。
この場を、彼に委ねるためだ。
「……久しぶりだな、勇者」
ヴァルガスは、エリオを見る。
値踏みでも嘲りでもない。
ただ、剣士としての視線。
エリオは息を整え、剣先をわずかに上げた。
「あの時とは違う。――俺たちは、成長した」
ヴァルガスの口角が、ほんの僅かに上がる。
「なら試そうではないか」
「来い」
それだけだった。
エリオは、一歩踏み出す。
観測が走る。
間合い、剣速、踏み込み、反撃。
――勝てない。
だが。
「……やるしかない」
ロイスが横に並ぶ。
剣を構え、呼吸を合わせる。
セリスは詠唱を短縮し、
ミラは回復の準備に入る。
ティオは、全体を見渡した。
「……隙、作る」
短い言葉。
だが、十分だった。
ヴァルガスが剣を抜く。
一閃。
ただの踏み込み。
それだけで、前線が揺れる。
ロイスが受け止める。
腕が軋む。
だが、退かない。
「……重い!」
「耐えろ!」
エリオが前に出る。
二人で押し返す。
そこへ、セリスの魔法が走る。
牽制。
決定打ではない。
それでも――
確かに、通じている。
ヴァルガスの目が、わずかに細まった。
「……悪くない」
一歩、引く。
それだけで、勇者一行は息を詰めた。
「勇者としては、十分だ」
それ以上は踏み込まない。
「だが、まだ足りん」
剣を構え直す。
ヴァルガスは、勇者たちを見据えたまま言った。
「……続きは、次だ」
それは命令ではない。
撤退の号令でもない。
剣を交えた者にだけ、向けられた言葉だった。
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同じ頃。
前線から少し外れた歪域で、
空間が、静かに軋んでいた。
「……来てる」
セフィラが、短く告げる。
魔力ではない。
瘴気でもない。
変成。
世界そのものが、書き換えられている。
「姿、見えない」
レイナが、剣を構えたまま言う。
「切れない相手」
アルトは、足を止めた。
《統治者の残響》が、警鐘を鳴らす。
――壊す対象ではない。
――戦う相手でもない。
「……やっぱりな」
歪みの奥から、声が響いた。
「触れただけで、気づくとは」
姿は、はっきりしない。
だが、意志だけは明確だった。
「魔王国軍、変成卿」
声が、名乗る。
「アグリオス」
セフィラが、即座に反応する。
「……戦闘ではない」
断定。
「世界干渉型。
目的は、停止」
その言葉通りだった。
アグリオスは、何も“していない”。
魔力を流していない。
術式も、展開していない。
それでも、
足を踏み出そうとすると――
世界の方が、拒む。
前に進めないのではない。
「進める理由」が、消されている。
アルトは、はっきり理解した。
(……こいつは)
(戦場を作る側じゃない)
(戦場が“成立しない状態”を作る側だ)
アルトは一歩前へ出る。
「勇者を止めるためか」
「正確には」
アグリオスの声が、歪む。
「“正しい流れ”を守るため」
「変え続ける世界は、不安定だ」
「なら、固定する」
レイナが低く言った。
「……切れないなら、
外に出す」
セフィラが、指先を動かす。
「封界、準備」
アルトは、頷いた。
「倒す必要はない」
「止める方法は――分かった」
歪みが、わずかに後退する。
アグリオスは、笑ったような気配を残す。
「理解が早い」
「続きは、次の段階で」
歪みが、消える。
残ったのは、
異様な静けさだけだった。




