第32話 動かない者が動いた日
帝都総合管轄室。
誰もいないはずの空間で、
ひとつの視線だけが、前線を捉えていた。
「……介入値、臨界」
帝国監視官ノーンは、淡々と記録を更新する。
勇者の進軍は止まり、
魔王軍は押し返さず、
戦線は“動かないまま”安定している。
衝突なし。
損耗なし。
進展なし。
戦争としては、異常だ。
だが、世界の収束という観点では――正しい。
「本来、勇者はここで停滞する」
“原初の意志”が定めた進行では、
それが最適解だった。
それでも。
ノーンの視線は、勇者ではなく、
王国側の一点に留まり続けている。
「……例外が、観測されている」
王国ギルドマスター、アルト・フェルディア。
介入権限を持たないはずの男。
だが、前線が止まった瞬間から、
彼の“観測値”だけが、緩やかに上昇を続けていた。
「行動は、まだ」
ノーンは記す。
「だが――
動かないこと自体が、逸脱になりつつある」
皇帝からの命令はない。
静観は、継続中。
ならば、
次に動くのは――向こう側だ。
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その頃、王都。
アルトは、机の上に広げた報告書から
視線を上げていた。
勇者前線、進行停止。
戦闘記録なし。
魔力異常なし。
文面だけを見れば、
何の問題もない。
数字は整っている。
判断も正しい。
誰も間違っていない。
それでも、
胸の奥で、言い知れない違和感が鳴り続けていた。
見られている。
以前より、はっきりと。
以前より、近くで。
「帝国から?」
レイナが、腕を組んだまま問いかける。
「……ああ」
アルトは短く答えた。
直接の干渉はない。
命令も、警告もない。
だが、
動こうとするたびに、道が塞がれる。
調査の提案は却下。
支援の名目は却下。
勇者への接触も、慎重に、という名の制限。
「止まってるのは前線なのに」
レイナは、苦々しく言った。
「縛られてるのは、こっちだな」
セフィラは、黙ったまま資料を見つめている。
“魔法的な異常は、ない”
“術式の乱れも、観測されない”
それが、逆に異常だった。
「……帝国は、問題だと思ってない」
アルトは、静かに言った。
「勇者が止まることも、
前線が進まないことも」
「むしろ、都合がいい」
その言葉に、空気が張り詰める。
「じゃあ、このまま待てって?」
レイナが訊く。
アルトは、しばらく黙っていた。
待てば、何も起きない。
だが、何も起きないまま、
勇者は消耗し続ける。
そして――
戻れなくなる。
「……正面からは、動けない」
アルトは、そう結論づける。
「帝国の視線がある以上、
俺が前線に立てば、それ自体が“問題”になる」
「でも」
レイナが、言葉を継ぐ。
「動かないと、勇者が詰む」
アルトは、頷いた。
「だから――」
視線を、地図の上に落とす。
魔族領。
停滞している、勇者の位置。
「公式じゃない形で、行く」
セフィラが、顔を上げた。
「勇者に?」
「ああ」
アルトは、迷いなく答える。
「介入する。
教えないし、指揮もしない」
「ただ――
“外側の視点”を渡す」
レイナは、息を吐いた。
「帝国が嫌うやつだな」
「承知の上だ」
アルトは、立ち上がる。
「これが問題になるなら、
それは……向こうが選んだことだ」
窓の外、王都は平穏だった。
だが、その平穏の裏で、
確実に線は引かれた。
帝国が見ている中で。
それでも――
アルトは、一歩を踏み出そうとしていた。
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勇者一行が野営を張っていたのは、
魔王アモンの居城へ続く街道から、
すでに一度通過したはずの中継地点だった。
前進は止まっている。
だが、後退もしていない。
補給線を確保し直し、
周囲の索敵と魔物掃討を繰り返す――
“進めないから止まっている”のではなく、
止まることを選んでいる陣だった。
焚き火の傍で、エリオは地図を見下ろしている。
「……あと数日で、城だ」
「それなのに――」
言葉は、続かなかった。
その時だった。
空気が、わずかに歪む。
誰かが魔力を放ったわけではない。
だが、結界が“置かれる前触れ”だけは、
セリスにははっきりと分かった。
「……来ます」
短く告げた瞬間、
野営地の外縁――
街道脇の岩場に、三つの影が現れた。
瞬間的な転移。
だが、乱暴なものではない。
あらかじめ“通れる場所”を選び、
既存の魔力流に沿って抜けてきた、
極めて慎重な移動だった。
「……あ」
ロイスが、思わず声を漏らす。
見覚えがある。
いや、忘れようがない。
先頭に立つ男が、軽く手を挙げた。
「久しぶり……ってほどでもないか」
アルトだった。
その後ろで、
レイナが周囲を一瞥し、
セフィラはすでに地面の魔力状態を確認している。
エリオは、すぐに理解した。
「……来たんですね」
アルトは頷いた。
「正式じゃない」
「王国としても、ギルドとしても」
「だから――ここまでだ」
セフィラが補足する。
「勇者一行が通過した補給線と、
王国側の魔力観測点は、全部把握している」
「そこを辿れば、追いつくのは難しくない」
“近道”ではない。
“後追い”でもない。
前線を“見る側”の人間だけが辿れる経路だった。
エリオは、一瞬だけ視線を伏せてから問いかける。
「……俺たちが、これ以上進んだら」
言葉を選ぶ。
「止められる理由が、あるんですよね」
その場の空気が、静かに張り詰めた。
アルトは、すぐには答えない。
代わりに、レイナが言った。
「ある」
セフィラも、淡々と続ける。
「ぼくたちが、ここで足を止めていた理由と同じ」
エリオは、拳を握る。
「……だから、前に出られなかった」
「そうだ」
アルトが、はっきりと肯定した。
「でも――」
一歩、前に出る。
「君たちが止まる理由は、もうない」
レイナが肩をすくめる。
「進んだ責任は、私たちが引き受ける」
「“勇者が勝手に動いた”形にはしない」
セフィラは、空を見上げた。
「外側の視線は、こちらに向く」
「その間に、勇者は前へ出られる」
エリオは、ゆっくりと息を吐いた。
それは“助け”ではない。
役割の切り分けだった。
「……危険ですよ」
「慣れてる」
アルトは、短く笑う。
「それに――」
勇者一行全員を見渡す。
「ここから先は、君たちの戦場だ」
「俺たちは、外側を整える」
沈黙の後、
エリオは深く頷いた。
「分かりました」
「……お願いします」
「ああ」
その瞬間、
セフィラの指先が、わずかに動く。
「――視線が、強まった」
遠く、
“何か”が焦点を合わせる感触。
レイナが、低く息を吐く。
「ちょうどいい」
「引きつけ役は、俺たちだ」
アルトは、最後に一言だけ告げた。
「進め」
「止まる理由は、もうない」
勇者一行は、静かに頷いた。
それぞれが、
自分の役割を理解した顔だった。
こうして――
勇者は再び前へ。
アルトたちは、
ついに、戦場の“縁”へと踏み出した。




