第30話 静かな圧力
それは、どこかで見た光景だった。
アルトは、勇者一行から届けられた報告書から
視線を離し、
机の上に並べた古い記録へと指を滑らせていた。
勝敗が決まらず、
戦が成立しなかった事例。
戦力差では説明できず、
戦術的な失敗でもなく、
ただ――進めなかった。
歴史の中には、
そうした「空白」が、確かに存在する。
「……似ているな」
ぽつりと漏れた独り言に、
向かいの椅子に腰掛けていたセフィラが
視線を上げた。
「“進軍不能事例”?」
「正確には、記録に残らなかった戦いだ」
アルトは、指先で一冊の年代記を閉じる。
「勝っていない。
負けてもいない。
それでも――撤退している」
「理由は?」
「分からない、で片づけられてる」
セフィラは、軽く息を吐いた。
「記録に残せなかった、というより……
記録できなかった、の方が近い」
アルトは、頷いた。
そこへ、セフィラが続ける。
「まず、魔法じゃない」
珍しく断定だった。
だが、アルトは反論しなかった。
反論できる材料が、どこにもなかったからだ。
「転移ではない。
幻影でもない。
結界干渉でもない」
セフィラは、淡々と言葉を並べる。
「魔力反応がない。
術式の残滓もない。
“成立しなかった魔法”ですらない」
「世界が、受け取らなかった?」
アルトの問いに、
セフィラは一瞬だけ言葉を探した。
「……近いけど、違う」
「受け取らない、というより――
最初から、選択肢に入れていない感じ」
「存在を?」
「行動を、かもしれない」
セフィラは、机に広げた簡易図へ指を落とす。
「魔法が失敗したんじゃない。
“魔法を使う”という事象自体が、成立していない」
アルトは、目を細めた。
「……世界の扱い方が、違う」
思考が、ゆっくりと噛み合っていく。
「強い魔法使いでもない。
高度な術式でもない」
「これは、魔法体系の外。
技術でも、才能でも説明できない」
「じゃあ、勇者が劣っているわけでもない」
「むしろ逆」
セフィラは、はっきりと言った。
「正しく戦っている。
だからこそ、止められた」
沈黙が落ちる。
それは、
勇者一行の成長を肯定する言葉でもあり、
同時に――残酷な宣告でもあった。
「……俺たちが想定している“戦”じゃない」
アルトは、報告書にもう一度目を落とす。
一時的な存在消失。
魔法不成立。
戦闘未成立。
「このまま行かせれば、
次は“戻らない”可能性がある」
「……」
セフィラは、否定しなかった。
「でも、今はまだ――
誰が、何をしているかは分からない」
アルトは、ゆっくりと立ち上がる。
「分からない、で止める段階は終わった」
視線は、前線の方向へ。
「これは、勇者だけに任せる話じゃない」
セフィラは、その背中を見て、静かに告げた。
「……。“確認”が必要だね」
「……現地へ行く、は無理だな」
アルトは、そう結論づけた。
それは弱気でも、諦めでもない。
ただの事実だった。
「帝国が?」
向かいに立つレイナが、腕を組んだまま訊く。
「ああ」
アルトは、机の上の書簡を軽く指で叩いた。
差出人の名はない。
だが、文面だけで十分だった。
――判断は急ぐな。
――余計な動きは、不要だ。
――貴殿の立場を、忘れるな。
「見てる、ってことね」
レイナは短く息を吐く。
「分かりやすい圧だな。
“勇者がいるんだから、お前は黙ってろ”って」
「黙っていろ、ではない」
アルトは首を振った。
「“正しい役割を果たせ”、だ」
レイナは苦笑する。
「嫌な言い回し」
アルトは立ち上がり、窓の外を見る。
王都は平穏だった。
勇者の噂は希望として消費され、
人々は“物語が進んでいる”と信じている。
「俺が前に出れば、
それ自体が異常になる」
「帝国は、そう判断する」
「ええ」
アルトは否定しない。
「だから、行かない」
レイナは少しだけ眉を上げた。
「……代わりは?」
アルトは、ゆっくりと振り返る。
「分けるんだ」
その言葉に、今度はセフィラが反応した。
「分業?」
「役割分担だ」
アルトは、机の上に三つの点を書いた。
「前線は、勇者が進む」
「観測と解析は、魔導士協会」
「情報の流れと判断は、ギルド」
レイナは、その図を見下ろす。
「……つまり、
誰も“余計なこと”をしてないように見せる」
「そうだ」
アルトは淡々と続ける。
「帝国が見ているのは、
“権限を越えた動き”だ」
「なら、越えなければいい」
セフィラが、小さく頷いた。
「ぼくは、調査を続ける」
「魔法じゃない、という前提で」
「でも、表向きは?」
「“異常は確認されていない”で通す」
レイナが、ため息混じりに言う。
「……現場は大変だろうけどね」
「分かってる」
アルトは、静かに答えた。
「だからこそ、
俺たちは“動いていないこと”が重要になる」
沈黙。
三人とも、このやり方が
“綱渡り”であることは理解している。
「もし、勇者がまた止められたら?」
レイナが訊く。
「その時は?」
アルトは、少しだけ考えた。
「その時は……」
言葉を選び、続ける。
「誰かが“勝手に”気づいたことにする」
レイナが口角を上げた。
「随分、都合がいい」
「そういう役目だ」
セフィラは、静かに笑った。
「アルトが前に出ないから、
余計に不安になる人もいるけどね」
「不安で済むなら、安い」
アルトは、そう言い切った。
「俺が動けば、
帝国も、教会も、王国も動く」
「そうなれば、
勇者の戦いは“政治”になる」
誰も否定しなかった。
それが、一番避けるべき未来だと分かっている。
「……だから、今は」
アルトは、書簡を引き出しにしまう。
「“動かない”という選択を、続ける」
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夜。
王都の灯りが、窓越しに揺れていた。
「勇者が前にいる間は、
俺は後ろにいる」
独り言のように、アルトは呟く。
「……それでいい」
帝国は、見ている。
だが、
見ているだけでは、分からないこともある。
アルトは、静かに机に向き直った。




