第29話 歪みとして現れるもの
前進は、順調すぎた。
魔物は散発的にしか現れず、
迎撃らしい迎撃もない。
エリオは、その状況を
「良い兆候」とは呼ばなかった。
敵がいないのではない。
――避けられている。
「……おかしいな」
呟いたのは、斥候のティオだった。
視線は森の奥、
視界の端から端へと忙しなく走っている。
「足跡がない。
正確には……あるはずのものが、途中で消えてる」
「逃げたんじゃない?」
ミラが首を傾げる。
「それなら、もっと乱れる。
これは……最初から近づいてすらいない感じだ」
ロイスは無言で周囲を見回し、
剣の柄に指をかけたまま、息を整えている。
「進軍速度、落とすか?」
エリオの問いに、誰も即答しなかった。
判断そのものは正しい。
だが、正しい判断だけで進める状況ではない。
「いえ……このまま行きましょう」
口を開いたのは、セリスだった。
「ここで止まれば、
相手の“待ち”に応じることになります」
「……そうだな」
エリオは短く頷いた。
進む。
判断は揃っている。
それなのに――
前に進むほど、世界が“軽く”なっていく。
音が減った。
風の向きが揃いすぎている。
草の揺れが、同じ角度で止まっている。
「……静かすぎる」
ロイスが低く言った、その瞬間だった。
地面が、僅かに沈んだ。
揺れと呼ぶほどではない。
だが、確かに足元の感覚が“ずれた”。
「全員、止まれ!」
エリオの声と同時に、
ティオが一歩、前に踏み出した。
――次の瞬間。
「……え?」
声だけが残った。
ティオの姿が、消えた。
「ティオ!?」
ロイスが叫ぶ。
セリスが即座に詠唱に入ろうとして、止まる。
魔力反応がない。
転移でも、召喚でもない。
「待て、動くな!」
エリオが叫ぶ。
その直後だった。
「……ここだ!」
声がして、
一歩横の空間が、揺らいだ。
歪みがほどけるように、
ティオの姿が“戻った”。
「っ……!」
膝をつき、荒く息を吐く。
「今の……何だ?」
「消えてた……よな?」
ロイスが低く言う。
ティオは、首を振った。
「消えた、って感覚じゃない。
……誰かに、世界の外へ“置かれた”みたいだった」
沈黙が落ちる。
誰も否定できなかった。
痕跡はない。
魔力も、衝撃も、残っていない。
それでも、
確かに“起きた”。
「全員、円陣」
エリオは即座に命じる。
「距離を詰めろ。
一人で判断するな」
命令は通る。
混乱は抑えられている。
それでも――
“流れ”は、確実に壊れ始めていた。
遠くで、
何かが動いた気配がした。
魔物の気配ではない。
殺意でもない。
――見られている。
エリオは、その感覚だけを頼りに、
剣を構えた。
戦いは、まだ始まっていない。
だが、
戦場は既に、相手の形に組み替えられていた
円陣を組んだまま、
勇者一行は足を止めていた。
誰も口を開かない。
だが、全員が“同じもの”を感じている。
――この場所は、もう戦場ではない。
「……進めるか?」
エリオの問いに、
誰も即答しなかった。
「進める、とは思う」
セリスが慎重に言葉を選ぶ。
「ただし……
同じことが、もう一度起きる可能性が高い」
「次は、誰が消えるかわからない」
ロイスが低く付け足す。
ミラは唇を噛み、
ティオは未だ、地面から目を離せずにいた。
「……進む」
エリオは、短く告げた。
「止まれば、相手の思う通りだ。
進んで、様子を見る」
判断は、間違っていない。
だからこそ――
次の異変は、より静かに起きた。
進軍を再開して、
ほんの数歩。
「……魔力が、薄い」
セリスが眉を寄せる。
「減ってる、というより……
噛み合ってない」
詠唱に入ろうとした魔法が、
途中で霧散した。
失敗ではない。
妨害でもない。
“成立しない”。
「魔法が……通らない?」
「通らないんじゃない」
セリスは、首を振る。
「世界側が、受け取ってない」
言葉の意味を、
誰も理解しきれなかった。
その時だった。
視界の端で、
空気が“歪んだ”。
誰かが現れたわけではない。
だが、確かに――“何か”がいる。
「……来るぞ!」
ロイスが叫ぶ。
剣を振るう。
だが、手応えがない。
斬った感触はある。
だが、斬った“相手”が存在しない。
「幻影か!?」
「違う……!」
ティオが叫ぶ。
「幻影なら、影がある!
これは……そもそも、対象が定義されてない!」
その言葉と同時に、
地面に描かれた魔法陣が、淡く光った。
誰も詠唱していない。
誰も、術式を組んでいない。
それでも、
空間そのものが“固定”される。
「っ……!」
足が、動かない。
縛られているわけではない。
重力でも、拘束でもない。
“動く理由が、消えている”。
「……なるほど」
どこからともなく、
静かな声が響いた。
姿は見えない。
だが、声だけは、確かにそこにある。
「君たちは、正しく戦っている」
「だからこそ……
ここから先には、進めない」
エリオは歯を食いしばる。
「誰だ!」
返事はない。
代わりに、
空気が、元に戻った。
魔法陣が消え、
足の自由が戻る。
まるで――
最初から、何もなかったかのように。
「……撤退だ」
エリオは、即座に判断した。
「これ以上、進めない。
今は、だ」
誰も反対しなかった。
戦っていない。
敗北もしていない。
それでも――
完全に、止められている。
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遠く離れた場所。
森の奥、
戦線を俯瞰できる高所で。
アグリオスは、静かに杖を下ろした。
「……人族の勇者」
感情は、ない。
評価も、侮蔑もない。
「悪くない。
だが――」
視線を、わずかに逸らす。
「まだ、“戦”には届いていない」
その言葉と共に、
彼の姿は、空間に溶けた。
戦場には、
再び、静寂だけが残された。




