第19話 勝たない戦争 ― 戦線調整
報告書だけを読めば、問題はなかった。
撃退。
被害軽微。
戦闘継続可能。
王国ギルドに上がってきた文面は、
いつもと同じ言葉で埋められている。
だが、アルトはその紙束を閉じて、静かに言った。
「……これは、勝利報告じゃない」
レイナが首を傾げる。
「被害も少ないし、撤退判断も妥当でしょ?」
「勇者たちも無事だった」
「だからこそ、だ」
アルトは地図を広げた。
勇者一行の進軍線が、赤で引かれている。
「ここから、動いていない」
「止められた、ってこと?」
「留められた」
アルトは言い直した。
「押し返されたわけじゃない」
「前に出る理由を、削られただけだ」
セフィラは、戦闘時の魔力ログを指でなぞる。
「魔法行使の順序も、無駄はない」
「回復のタイミングも適切」
「ミスは?」
「ない」
彼女は即答した。
「勇者側の判断は、ほぼ最適」
それでも、結果は“前進なし”。
アルトは、短く息を吐いた。
「つまり、これは」
「勇者の強さを測る戦いじゃない」
「……戦争?」
レイナが小さく呟く。
「いや」
アルトは首を振る。
「戦争の“準備”だ」
彼は、報告書の余白に指を置いた。
「魔物は、指揮されていない」
「少なくとも、命令されて動いた形跡はない」
「じゃあ、どうして……」
「戦場が選ばれてる」
アルトの視線は、地図の地形に落ちる。
「視界の悪い斜面」
「退路に向かう谷」
「瘴気の溜まりやすい場所」
「偶然にしては、揃いすぎだ」
セフィラは、静かに頷いた。
「魔物を操っているわけじゃない」
「でも、魔物が“最も効果的に動く場所”
を知っている」
「将軍のやり方だな」
アルトの言葉は、断定ではなかった。
だが、方向性は見えていた。
「教会が動いた、このタイミングで、か」
レイナが呟く。
「人族の視線が内側に向いている」
「だから、前線は“止めるだけ”でいい」
アルトは、ゆっくりと頷いた。
「人族が自分たちで動けなくなるまで」
「前に出させない戦争」
「……嫌なやり方」
「戦争って、だいたいそうだ」
アルトは、地図を畳んだ。
「だが、まだ全力じゃない」
「分かるの?」
「数字が、妙に整いすぎてる」
「勝ちに来ていない戦いだ」
それだけで十分だった。
アルトは、静かに結論をまとめていた。
「これは、偶発的な衝突じゃない」
「だが、正体を決めるには早い」
「じゃあ、どうするの?」
レイナの問いに、アルトは答える。
「観測を続ける」
「前線を無理に押し出さない」
「そして――」
彼は、勇者一行の進軍線を、もう一度見た。
「次に同じことが起きたら」
「その時が、本番だ」
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その頃、丘の上。
戦場を見渡せる位置で、
《変成卿》アグリオスは、
静かに気配を読んでいた。
報告はない。
必要もなかった。
彼にとって重要なのは、
数字でも戦果でもない。
――流れだ。
勇者たちが、どこで足を止め、
どの瞬間に選択を誤ったか。
「……いい反応だ」
小さく、独り言のように呟く。
勝敗には、意味がない。
削れたかどうかでもない。
「判断が鈍った」
「それだけで十分だ」
視線の先で、
戦場に散った魔物たちの残滓が、
まだ微かに脈打っている。
それらは命令を受けていたわけではない。
だが――
「少し、寄せすぎたか」
指先が、わずかに動く。
空気に混じる瘴気が、
“偏り”を帯びていく。
逃げる魔物と、
引き寄せられる魔物。
意図的ではない。
だが、偶然とも言い切れない。
「これ以上は、まだ早い」
彼は、そう判断した。
軍を動かす段階ではない。
戦線を押し上げる必要もない。
「もう一段階」
「人族が、自分で崩れるところを見たい」
丘を渡る風が、
戦場の匂いを運んでくる。
アグリオスは、ただ観測していた。
――変化が、どこまで進むかを。
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夜。
焚き火の音だけが、静かな丘陵に響いていた。
勇者一行は、野営の準備を終え、
それぞれが無言のまま火を囲んでいる。
勝ったはずだ。
敵は退いた。
それでも、誰も安堵していなかった。
「……また来るな」
ロイスが、ぽつりと言った。
「同じ形で、じゃない」
「もっと、嫌な形で」
誰も否定しなかった。
「……ちゃんと、考えて動いたよね」
ミラは焚き火を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
ミラの問いは、誰に向けたものでもない。
「判断も、連携も」
「全部、うまくいってたと思う」
「うん」
セリスが頷く。
「だからこそ……」
言葉が、続かなかった。
エリオは、焚き火を見つめたまま、
静かに口を開く。
「……勝ち方を、選ばされてた」
全員の視線が集まる。
「押せた場面はあった」
「でも、踏み込むと、必ず何かを失う気がした」
「それで、下がった」
「正しい判断だったと思う」
エリオは続ける。
「でも……」
剣を握る手に、力が入る。
「このままだと、ずっと前に進めない」
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魔王国領、要塞の一室。
《血戦公》ヴァルガスは、地図の前に立っていた。
配下の将校が、簡潔に報告する。
「勇者一行、戦線を維持」
「撤退判断、適切」
「消耗率、想定内」
「そうか」
ヴァルガスは、それ以上の評価をしなかった。
勇者は強い。
判断も悪くない。
だが――
「戦争は、強さで決まらん」
彼は、地図上の別の地点に指を置く。
「次は、場所を変える」
「正規軍は?」
「まだだ」
即答だった。
「人族は、まだ自分たちで足を止めている」
「今ここで正規軍を出せば、戦争になる」
「今、出す意味はない」
将校は、深く頭を下げる。
ヴァルガスは、視線を上げた。
「削るのは、体力じゃない」
「“次に踏み出す決断”だ」
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王国ギルド。
アルトは、ひとり執務室に残っていた。
報告書は、すでに読み終えている。
新しい情報は、ない。
それでも、机を離れなかった。
「……次は、同じじゃない」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
勇者たちは、今回を“経験”として受け取る。
魔王軍は、今回を“確認”として終えた。
この差は、大きい。
「正規軍が出るか」
「別の幹部が来るか」
いずれにせよ、
次は“偶然”では済まない。
アルトは、静かに目を閉じた。
「……ここから先は」
助けるか。
見守るか。
あるいは――
戦場に入る覚悟を決めるか。
まだ、答えは出さない。
だが、選択の猶予は、
確実に減っていた。
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丘陵に、風が吹き抜ける。
焚き火は小さくなり、
夜は、深くなっていく。
戦争は、まだ始まったばかりだ。
だが、
次の一手は、すでに用意されていた。




