第10話 境界に触れた者
結論から言えば、その件は公にはならなかった。
行方不明。
事故の可能性あり。
詳細は調査中。
それが、王都で共有された公式見解だった。
ギルド本部の会議室は、必要以上に静かだった。
──冒険者ギルド本部。
各国のギルドを統括するその中枢は、
王都ではなく帝都に置かれている。
アルトたちも異変の報告に来ていた。
重ねられた書類には、
戻らなかった冒険者の受注記録、
現地調査部門の報告、
そして、未帰還という事実だけが並んでいる。
「現象は未確定。
原因、影響範囲、再現性――いずれも不足してる」
淡々と、帝国側の担当官が告げた。
「よって、本件は非公開。
王国、教会、ギルド、いずれにも通達済みだ」
それは、もっともらしい判断だった。
レイナは、言葉を選びながら口を開く。
「確かに、断定はできません」
「でも……同じような案件が、
他にも出始めています」
「だからこそだ」
担当官は、即座に返した。
「今は、勇者が動いている」
「世界は、前に進んでいる最中だ」
アルトは、黙ってそのやり取りを聞いていた。
否定はしない。
だが、同意もしない。
「“事故”として処理する」
それが、その場での決定だった。
•行方不明者は捜索継続
•依頼内容は非公開
•噂が広がらぬよう、情報は制限
世界は、そうやって異常を飲み込む。
「……隠す、というより」
会議が終わりに近づいた頃、
アルトは静かに言った。
「まだ、言葉が見つからないだけだ」
誰も、反論しなかった。
その後、王都では公式な混乱は起きなかった。
冒険者は依頼を受け、
市民は日常を続け、
酒場では勇者の戦果が語られる。
聖教会も、簡単な声明を出した。
曰く、
「今は試練の時であり、
信仰を正しく保つことが重要である」と。
具体的な説明はなかったが、
それで納得する者は多かった。
アルトは、その文面を一読し、机に伏せた。
意味づけは、いつだって後から与えられる。
問題は、
その前に何が起きているかだ。
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勇者一行は、王国北方へと進んでいた。
舗装された街道は次第に減り、
地図の色は、濃い緑へと変わっていく。
「この先が……原初の森、だっけ?」
斥候のティオが、地図を覗き込みながら呟いた。
原初の森。
王国と魔族領の境に広がる、調査不能区域。
「魔物発生地が複数確認されている」
そう教えられてはいるが、
その奥がどうなっているかを
知る者はいない。
「魔物は?」
「……いるはずなんだけどな」
見渡す限り、
森は静かだった。
勇者は、歩みを止めなかった。
正しい道を進んでいる。
そう信じているからだ。
だが、
その足元で、
世界はすでに違う形で動き始めている。
王都では処理された異常。
森では、まだ名も付いていない違和感。
それらが、
同じ一つの現象だと知る者は、
まだ、いなかった。
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原初の森の手前で、空気が変わった。
それは瘴気の濃さではない。
勇者エリオ一行が
これまでに感じてきたものとは、質が違った。
「……臭いな」
前衛が、思わず顔をしかめる。
瘴気は確かに漂っている。
だが、滞留しているのではなく
――荒れている。
「森が、ざわついてる……?」
誰かが呟いた、その直後だった。
茂みが、内側から引き裂かれるように弾けた。
咆哮。
それは魔物の声だったが、
理性の欠片もない、ただの怒号だった。
姿を現した魔物は、
本来なら単独では凶魔獣に及ばないはずの種だ。
だが、その姿は明らかに異常だった。
筋肉は不自然に膨れ、
皮膚の下で瘴気が脈打っている。
瞳は濁り、
焦点が合っていない。
「……暴走、か?」
エリオが息を呑む。
次の瞬間、魔物は地を蹴った。
戦術も、間合いもない。
ただ、破壊するためだけの突進。
エリオが前に出る。
剣を構え、正面から迎え撃つ。
刃は、確かに通った。
だが――
「止まらない!?」
傷を負っているはずの魔物は、
痛覚を失ったかのように動き続ける。
後衛が距離を取ろうとした瞬間、
魔物の爪が地面を抉った。
その時だった。
別方向から、空気が圧縮される感覚が走った。
轟音。
視界の端で、魔物の巨体が横から吹き飛ばされる。
木々をなぎ倒し、
地面を転がり、
それでもなお立ち上がろうとする。
「……何だ?」
エリオが、思わず振り向いた。
そこにいたのは、三人組だった。
戦装束でもなく、
冒険者とも違う。
だが、ただ立っているだけで、
場の空気が変わる。
「動くな」
低く、よく通る声。
先頭に立つ青年――アルトだった。
魔物は、なおも暴れようとする。
瘴気が、さらに荒れ狂う。
その背後で、
同行していた一人の女性が静かに息を吐いた。
「……やっぱり、ここだった」
その声は落ち着いていたが、
確信を含んでいる。
「完全に、踏み越えてる」
アルトが、短く言う。
「この状態じゃ、正規の手順じゃ抑えきれない」
「じゃあ、どうするの」
レイナが、即座に問いかけた。
答えは、言葉ではなかった。
アルトが一歩、前に出る。
次の瞬間、
世界が一拍、静止したように感じられた。
瘴気が、歪む。
魔物の動きが、目に見えて鈍る。
まるで、
ここから先へ進むことを拒まれているかのように。
「……何を?」
エリオが、思わず呟く。
理解が追いつかない。
その背後で、
先ほどの女性が詠唱を始めた。
短く、正確で、
一切の無駄がない。
「――封界・臨時展開」
空間が、折り畳まれる。
暴走していた瘴気が、
急速に収束していく。
「今」
アルトの声に、レイナが反応した。
「了解」
連携は一瞬だった。
魔物は抵抗する間もなく、
存在そのものを断ち切られる。
静寂。
風が、戻る。
勇者一行は、言葉を失っていた。
今見たものは、
単なる強敵討伐ではない。
ロイスは、無意識のうちにレイナを見ていた。
剣と動きを自然に繋ぎ、
一切の無駄なく戦闘を終わらせる姿。
(……なんだ、あの人)
胸の奥で、静かな熱が灯る。
一方で、セリスは視線を逸らせなかった。
短い詠唱。
完璧な制御。
(……魔術師、だよね?)
だが、
それ以上の言葉が見つからない。
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「……魔物、だったんですか?」
エリオが、恐る恐る問いかける。
アルトは、森から目を離さず答えた。
「“なってしまった”ものだ」
「本来、ああなるはずじゃなかった」
同行していた女性が、静かに付け加える。
「瘴気に当てられた、というより……」
「境界に触れた結果、ね」
原初の森は、
何事もなかったかのように静まり返っている。
だが、
確実に一線を越えた痕跡だけが残っていた。
エリオは、森を見つめたまま思う。
(……知らないことが、多すぎる)
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アルトは、同じ森を見据えていた。
(……もう、“何も起きない”とは言えない)
世界は、
静かに壊れる段階を終え、
牙を剥き始めていた。




