第13話 黒い悪魔と、過剰防衛という名の焦土作戦
平和とは、実に脆いバランスの上に成り立っている概念だ。
例えば、淹れたてのコーヒーの香り、午後の柔らかな日差し、そして読みかけの文庫本。
これらが生み出す至福の時間は、たった一つの「黒い影」によって、瞬時にして阿鼻叫喚の地獄へと変貌する。
時刻は午後二時。
俺がカウンターの汚れを拭いていた時のことだ。
視界の端を、黒い物体が高速で横切った。
カサカサ、という生理的嫌悪感を直接刺激する足音と共に。
「……ッ!」
俺は凍りついた。
奴だ。Gだ。
異世界に来てまで、あの忌まわしき「黒い悪魔」に遭遇するとは。しかも、こちらの世界のGは栄養価が高いのか、前世の記憶にあるそれよりも一回りはデカく、甲殻がミスリルのように黒光りしている。
俺は深呼吸をし、震える手で近くにあった古新聞を丸めた。
大丈夫だ。俺は元サラリーマン。幾度となく奴らとの死闘を潜り抜けてきた。
静かに、確実に、新聞紙で叩き潰す――
「どうしたケンヤ! 殺気を感じるぞ!」
俺が間合いを詰めた瞬間、背後からアルドの怒声が響いた。
バカ野郎、大きな声を出すな。奴が気づくだろうが。
「シッ! 静かにしろアルド。そこに……『侵入者』がいる」
「なんだと!? 敵襲か!」
アルドが過剰に反応し、背中の大剣を引き抜いた。
狭いカウンターの中で、全長2メートルの鉄塊を振り回すな。
「いたぞ! あそこだ!」
アルドがGを目視した瞬間、彼の目が戦士の色に変わった。
「速え……! あの動き、ただの斥候じゃねえ! 『影の暗殺者』クラスか!」
「ただのゴキブリだ! 新聞紙でいい、新聞紙を貸せ!」
「甘いぜケンヤ! あいつの甲殻を見てみろ! 俺の剣すら弾き返しそうな輝きだ! ならば……叩き潰す!!」
ドゴォォォォン!!
アルドが大剣を床に叩きつけた。
Gがいた場所を中心に、床板が爆散し、カウンターが衝撃で跳ね上がる。
俺のコーヒーカップが宙を舞い、粉々に砕け散った。
「やったか!?」
「やってない! お前がやったのは床のリフォーム(破壊)だけだ!」
煙の中から、Gが無傷で飛び出し、壁を這い上がっていく。速い。さらに加速している。
「……チッ。逃がさんぞ」
次に動いたのはヴァネッサだ。
彼女は紫色の炎を指先に宿し、ニヤリと笑った。
「店長、下がっていろ。物理が当たらぬなら、広範囲殲滅魔法で焼き尽くすのみ」
「待て! 壁に向かって火を放つな! 木造建築だぞ!」
「問題ない。奴を灰にした後、消火すればいい」
「その時には店も灰になってるんだよ!」
ズドォォン!!
ヴァネッサの手から放たれた『地獄の業火』が、壁一面を舐め尽くす。
壁紙が燃え、ポスターが炭化し、Gは――炎の中を悠々と駆け抜けて天井へと移動した。
「バカな……!? 私の魔界の炎を耐え切っただと!?」
「耐えたんじゃない、避けたんだよ! あいつの回避能力を舐めるな!」
天井に張り付いたGは、触角をピクリと動かし、こちらを嘲笑うかのように見下ろしている。
まずい。このままではアルドとヴァネッサが店を解体しかねない。
「……(スッ)」
そこへ、ミアが静かに歩み出た。
彼女はサングラスを装着し、杖を天井に向けた。
あいつだ。あいつだけが頼りだ。ミアなら、空間魔法でGだけを外に転移させてくれるはず――
「……(ロックオン)」
ミアの杖の先に、極小のブラックホールのような黒い球体が生成される。
「おいミア? なんで重力魔法の詠唱に入ってるんだ?」
「……(圧殺)」
「やめろ! 天井にブラックホールを作ったら、店ごと押し潰される!」
キュイイイイイ……!
空間が歪む。天井の板がメキメキと音を立てて剥がれ、Gごと黒い球体に吸い込まれそうになる。
だが、Gはその吸引力さえも利用し、加速をつけて俺の顔面めがけて飛んできた。
「ひぃっ!?」
俺が腰を抜かした、その瞬間。
「うおおおお! 隙ありぃぃぃ!!」
「死ねぇぇぇ!!」
アルドの大剣と、ヴァネッサの短剣が、俺の目の前(鼻先数センチ)で交差した。
キィィィィン!!
金属音が鼓膜を劈く。
二人の攻撃は、Gを捉えたのか?
いや、違う。二人の武器が衝突した衝撃波で、俺の前髪が数本切り飛ばされただけだ。
Gは?
見ると、開けっ放しの窓から、悠々と外へ飛び去っていく黒い影が見えた。
「……逃げられたか」
「チッ……強敵だったな」
「……(完全敗北)」
三人が悔しそうに武器を収める。
その背後には、穴だらけの床、焦げた壁、歪んだ天井、そして腰を抜かして失禁寸前の店主(俺)が残された。
俺は震える手で、無意味になった丸めた新聞紙を握りしめた。
「……お前ら」
「ん? なんだケンヤ、礼ならいいぞ」
「出ていけぇぇぇぇぇ!!!」
俺の絶叫が、半壊した店内に木霊した。
結論。
害虫駆除において最も重要なのは、殺虫剤の性能ではない。
「バカを店に入れないこと」。
これこそが、被害を最小限に抑える唯一の真理である。




