第12話 怪談、あるいは認識の齟齬が生む喜劇
『天気が悪い』という表現は、実に人間中心的な傲慢さを孕んでいると思わないか。
雨は大地を潤す恵みであり、本来なら感謝すべき自然現象だ。
しかし、今日の俺に限って言えば、この降り止まぬ雨を『巨悪』と断定することに一片の躊躇も覚えない。
理由は単純明快。この雨のせいで、本来なら屋外で発散されるべき過剰なカロリーと暴力衝動が、行き場を失って全て俺の店内に蓄積されているからだ。
ここは喫茶店であって、猛獣の檻ではない。だが、今の状況は動物園の飼育員ですら同情するレベルだろう。
「……暇だ。筋肉が分解される音がする」
床に寝転がり、店の梁が軋むほどの重さのダンベル――というか、あれはただの墓石ではないか?――を上げ下げしているアルドが、苦痛に満ちた声を上げる。
彼の呼気と共に室温が上がり、湿度が上昇している。除湿機がないこの世界で、生体暖房器具が稼働するのは迷惑以外の何物でもない。
「店長。暇すぎてナイフの研ぎ味が鋭くなりすぎた。試し切りをする相手がいないのだが、そこの筋肉ダルマを三枚におろしてもいいか?」
カウンターの端で、ヴァネッサが鏡のように磨き上げられた短剣を見つめながら、物騒な提案をしてくる。彼女の周囲だけ空気が冷たいのはありがたいが、殺気で室温を下げるのはやめていただきたい。
「……(ズズズ)」
そしてミアは、ストローでジュースを飲みながら、暇つぶしに空間魔法でテーブルの上の角砂糖を「消失」させては「再生」させるという、神の所業のような遊びを繰り返している。やめろ、砂糖の分子構造が変わる。
このままでは、退屈という猛毒が彼らを蝕み、発作的な「店舗破壊活動」へと繋がりかねない。
俺は読んでいた本を閉じ(内容は全く頭に入ってこなかった)、ため息と共に提案した。
「……お前たち。そんなに暇なら、少し涼しくなるような話でもするか」
「涼しくなる話? 氷魔法の講義か?」
「違う。……怪談だよ」
そう、ジャパニーズ・ホラーだ。
湿度の高い日本の怪談は、情緒を知らぬ異世界の住人たちに「恐怖」という名の教養を植え付けるのに最適だろう。ついでに少し大人しくなってくれれば御の字だ。
「カイダン? 階段の上り下りか? 下半身強化だな! 悪くない!」
「その脳みそは筋肉繊維でできているのか。怖い話だ、幽霊の話だよ」
「幽霊か! 低級なアンデッドだな。ワンパンで沈む雑魚じゃないか」
アルドが鼻で笑う。これだから脳筋は困る。
俺は人差し指を立て、チッチッ、と舌を鳴らした。
「甘いな、アルド。俺が話すのは、剣も魔法も通じない、もっと根源的な恐怖だ。……いいか、照明を落とせ」
俺は雰囲気作りを徹底した。
薄暗い店内で、ロウソクの火が揺れる。
俺が選んだ演目は、定番の『番町皿屋敷』だ。
「……一枚……二枚……」
俺は声を低くし、恨めしげに語り始めた。
井戸の底から響く女の声。理不尽な死。そして、夜な夜な足りない皿を数える悲哀。
どうだ。この「ワビ・サビ」を含んだ陰湿な恐怖。単純な暴力で生きている彼らには、新鮮な戦慄として伝わるはず――
「質問がある」
話の腰を折ったのは、ヴァネッサだった。
彼女は心底理解できないといった表情で眉をひそめている。
「なんだ、ヴァネッサ。怖くて眠れそうにないか?」
「いや、解せない。……なぜ、その女(お菊)は、皿を数えるなどという非生産的な行動を繰り返すのだ?」
「は?」
「恨みがあるなら、その屋敷の主人の寝首をかけば済む話だろう。霊体化しているなら物理攻撃は無効、壁抜けも可能。暗殺者としてはこれ以上ない最強のスペックだぞ? なぜそれを『在庫管理』のような単純作業に浪費する?」
在庫管理。
情緒もへったくれもない単語が出てきた。
「い、いや、これはそういう怨念の表現というか……」
「それに、一枚足りないなら、焼けばいいだろう。皿など粘土を捏ねて魔力で焼成すれば数秒で作れる」
「そういう問題じゃないんだよ! 皿の価値とか製造工程の話はしてない!」
ヴァネッサのダメ出しに続き、アルドも腕を組んで首を傾げた。
「俺もわかんねえな。井戸から出てくるんだろ? 待ち伏せして、出てきた瞬間にこう、上から大岩を落として蓋をすれば勝てるんじゃねえか?」
「幽霊に物理攻撃は効かないと言っただろう」
「じゃあ聖水を流し込めばいい! 井戸ごと浄化だ! ガハハ、楽勝だな!」
だめだ。こいつら、「恐怖」を「攻略対象」としてしか認識していない。
俺が頭を抱えていると、それまで黙っていたミアが、スッと手を挙げた。
「……(わかった)」
「お、ミア。お前なら、この物語の切なさがわかるか?」
ミアは無表情のまま、懐からサングラスを取り出して装着した。
そして、杖を振るう。
ヒュオオオオオ……。
店内の空気が凍りついた。
俺の演出ではない。本物の冷気だ。
床から、青白い霧が立ち込め、そこから「濡れた髪の女」がゆっくりと姿を現した。
「うわあああ!? なんだそれ!?」
「……(実演)」
実演販売みたいに言うな。
ミアが生み出したのは、幻影魔法による「お菊さん(ハイエンド・モデル)」だった。
だが、クオリティが高すぎる。腐り落ちた皮膚、充血した目、そしてこの世のものとは思えない怨嗟の声。
『……いちまぁい……にまぁい……』
本気で怖い。俺は腰を抜かしそうになった。
だが、俺以外の「戦闘狂」たちの反応は違った。
「おおっ! すげえプレッシャーだ! こいつは強敵の気配がするぜ!」
アルドが嬉々として大剣を構えた。
「フン……悪くない殺気だ。だが、私の『深淵の魔眼』の前では児戯に等しい」
ヴァネッサが赤く目を光らせ、戦闘態勢に入る。
「待て! やめろ! 幻影だぞ! 店の中で暴れるな!」
俺の叫びは、アルドの気合の雄叫びにかき消された。
「うおおおお! 必殺『退魔・剛腕・烈風斬』!!」
「消え失せろ! 『闇黒・次元・断裂波』!!」
ドゴォォォォン!!
アルドの剣圧とヴァネッサの魔法が、ミアの幻影(お菊さん)に向かって放たれた。
当然、幻影は霧散する。
だが、その背後にあった俺の店の壁とカウンターは、幻影ではない「実体」だ。
メリメリメリ……ガシャーン!!
爆風が吹き荒れ、俺が大切にしていたコーヒーミルが粉々になり、壁には巨大な風穴が空いた。
外から、雨と風が容赦なく吹き込んでくる。
「……あ」
アルドが間の抜けた声を上げた。
ヴァネッサが気まずそうに短剣を収める。
ミアは「私は悪くない」という顔でジュースを飲んでいる。
俺は、瓦礫と化したカウンターの中で、呆然と立ち尽くした。
雨に濡れた頬を伝うこれは、雨水なのか、それとも涙なのか。
「……一枚……二枚……」
俺は虚ろな目で、割れたコーヒーカップの破片を数え始めた。
「お、おいケンヤ? 大丈夫か?」
「……三枚……四枚……足りない……俺の平穏が、一枚も足りない……」
俺の怨念がこもった呟きを聞いて、さっきまで怪談を笑い飛ばしていたアルドたちが、真っ青な顔で後ずさりした。
「ひぃっ!? け、ケンヤが一番怖いぞ!」
「……本物の『怨霊』が誕生してしまったか……」
結論。
この世界において、最も恐ろしいのは幽霊でも妖怪でもない。
「修理費」という名の現実と、それを突きつけられた店主の「静かなる怒り」である。
俺はこの後、彼らに「この世の地獄(説教と掃除)」をたっぷりと味わわせてやったのだった。




