96話 灰は二度色彩を得る
「――っ、くぅ……!」
コレットの膝がガクンと折れた。
魔法を使おうとした瞬間だった。体内の魔力を練り上げ、放出するよりも早く、この飢えた灰色の空間がコレットの魔力を根こそぎ吸い上げたのだ。
まるで、乾いたスポンジが水を一瞬で吸い干すように。指先が冷たく痺れ、立っていることさえ辛い。
「コレット!」
エレナが叫ぶ。彼女の美しい回し蹴りが、迫りくる黒い影の頭部を捉える。
だが、その足は霞を掴むように影をすり抜け、空を切った。
「くっ……!」
実体を持たない「虚無」。物理攻撃は通じない。コレットが魔法で「色」を与え、実体化させなければ、エレナの武術もただの踊りだ。
影が触手のように腕を伸ばし、体勢を崩したエレナの足首に絡みつく。
「先輩ッ……!」
コレットが叫ぶが、助けるための魔法が出ない。
影に触れられたエレナのブーツの一部が、音もなく灰色に塗りつぶされ、消滅する。
「近づかないで! コレット、逃げなさい!」
エレナが叫びながら、反対の足で影を蹴り飛ばそうとするが、それもまたすり抜ける。
絶望的な相性差。このままでは、エレナが「無」に呑み込まれてしまう。
『……だめ……』
腕の中で、ルビィが消え入りそうな声で囁いた。
彼女の体は、もう明滅する力すら失い、ガラス細工のように透き通っている。
あと数分、いや数秒で、彼女の命の灯火は消えるだろう。そうなれば、この森は永遠に閉ざされた死の世界となる。
(魔力が、あれば……。あと一回でも、魔法が使えれば……!)
コレットは胸元を握りしめた。その手の中に、硬く、冷たい感触があった。
――【アズライトの栞】。
かつて、制御できない魔力に怯えるコレットに、カインが渡してくれた道標。
今はペンダントとして首から下げているその結晶だけが、灰色の世界で唯一色を失わず、ドクン、ドクンと心臓のように脈動している。
その鼓動を感じた瞬間、コレットの脳裏に、ある記憶が蘇った。
それは、オダイ・ジニでのこと。ヒビが入ったこの栞を、セレーナが直してくれた時の光景。
そして、セレーナとの修行中も、セレーナはずっと言っていた。
『栞は肌身離さず持っていろ。寝る時も外すな。風呂に入る時も外すな』
『今はまだ、ただの道標でしかないが、お前という存在の魔力に浸され、肉体の一部のように常に持ち歩けば、やがてそれは触媒に変わる』
『お前の意思に呼応して、お前を助けようとする』
旅の間、コレットはずっとこの栞を肌身離さず持ち歩き、無意識のうちに自分の「異界の魔力」を注ぎ込み続けてきた。
カインの想いと魔力回路。セレーナの強固な補強術式。そして、コレットという規格外の供給源。
三つの要素が長い時間をかけて融合し、この栞は単なる制御装置から、膨大な魔力を蓄積・増幅する「最強の魔道具」へと変質していたのだ。
(私の中に、まだある……!)
コレットは気づく。自分は空っぽではない。この栞こそが、第二の心臓だ。
さらに、不思議な感覚があった。
以前のコレットなら、これほどの力に触れれば、恐怖で体が竦んでいただろう。
「私に限りなく近い私ではない誰か」の記憶が混在し、この世界の「私」のズレが生むノイズ。
だが今は、静かだ。
度重なる覚醒と、魔法士としての成長。そして魂の還流を経て、前世の記憶は消え去り、『コレット』という存在の魂と肉体が完全に一つに融け合っていた。
今のコレットになら、扱える。
カインとセレーナが託してくれた、この青い奔流を、その真価を。
「……使います」
コレットは栞を両手で包み込んだ。制御はいらない。変換もしない。
貯蔵された原液のまま、この爆発的なエネルギーを引き抜く。
バチチチチッ!!
「あぐッ!?」
青い稲妻のような光が、コレットの手を焼く。激痛ではない。
血管の中を溶岩が流れるような、圧倒的な「全能感」の熱さ。
「コレット!? やめて、何をする気!?」
エレナが異変に気づいて叫ぶ。
コレットの全身から、青いオーラが噴き出していた。それは魔法と呼ぶにはあまりに荒々しく、けれどどこまでも澄み渡ったアズライトの青だった。
「先輩……! 私を、見てください!」
コレットが顔を上げる。その瞳は、栞と同じ鮮烈な青色に輝いていた。
鼻からツーと赤い血が流れる。人の身に余る力を行使する代償。
だが、その表情に迷いはない。
「私が……先輩を『彩り』ます……ッ! だから、先輩が……世界を殴ってください! 世界に……色をつけてください!!」
コレットの意図を、エレナは瞬時に理解した。
影を実体化させるために、広範囲に魔法を使う余裕はない。
だから、エレナという「点」に全てのエネルギーを注ぎ込み、彼女自身を「世界で一番濃い存在」に変える。
彼女が触れるもの全てに、無理やり色を感染させるための特攻バフ。
「……無茶苦茶だわ……。でも……私そういうの、嫌いじゃない!」
エレナは笑った。迷いはない。彼女は影を振り払い、コレットの前へと躍り出る。
「来て、コレット! 私が全部受け止める!」
「はいッ!!」
コレットが両手を突き出す。
栞から――師匠たちの技術と絆の結晶から溢れ出す奔流が、レーザーのようにエレナの背中へと突き刺さる。
それは、コレットという「個」の強烈な色彩をエレナに託す、魂の共振だった。
「……見えるわ、鮮やかな世界の輪郭が!」
エレナが地を蹴る。その足跡から、鮮烈な虹色の光が火花のように溢れ出した。
彼女の動きに合わせて、灰色の空間に極彩色の軌跡が描かれる。
「はぁッ!!」
エレナの回し蹴りが虚無を薙ぐ。その軌跡をなぞるように虹の帯が走り、触れた影に無理やり「色」を焼き付けて実体化させた。
実体化した端から、エレナの剛拳が影を粉砕していく。
コレットは鼻血を拭い、栞を握りしめて叫んだ。
「世界を、塗り替えて……先輩ッ!!」
エレナが嵐のように舞うたび、灰色の森は虹色の光に侵食され、ついに最後の一撃が大地を叩いた。
青い衝撃波が円環状に広がり、呪縛となっていた灰色の霧を根こそぎ吹き飛ばす。
剥がれ落ちる虚無のヴェールの下から、世界が息を吹き返した。
足元からは瑞々しい草木の香りが立ち昇り、エレナが描いた虹色の軌跡はそのまま光の奔流となって、枯れ果てていた森の血管を巡っていく
「……やった、のかしら」
エレナが荒い息を吐き、極彩色の光を帯びた拳を解く。
だが、安堵の表情を浮かべたコレットの腕の中で、異変が起きていた。
「ルビィちゃん……? もう大丈夫だよ、見て、色が戻ったよ!」
コレットが震える声で呼びかける。
しかし、腕の中の小さな羽は、もはや羽ばたく力を残していなかった。
桜色だった光の粒子が、コレットの指の間からこぼれ落ちるように収束していく。
熱を失い、透き通っていた体は急速に硬質化し――コレットの手のひらの上で、コロン、と乾いた音を立てた。
「……あ」
そこにいたのは、愛らしい案内人の姿ではない。
一点の曇りもない、紅い涙のような形の「結晶」だった。
「そんな……ルビィちゃん、嘘でしょ……?」
コレットの目から、溢れた涙が結晶に落ちる。
舞い散る光の粒を浴びながら、コレットとエレナはただ静かに、取り戻された極彩色の風に包まれていた。




