95話 灰色の迷宮
「崩れるぞ」
カインが短く告げると同時、目の前の巨大な尖塔が音もなく崩れ落ちた。
森の外縁に設置されていた、穢れを送り込むための「黒い煙突」。その一本を、カインは『地盤操作』で根元からへし折ったのだ。
「うわ、派手にやったねぇ」
リザが舞い上がる土煙を手で払いながら、森を見つめた。
「でもカイン、なんか変だよ。煙突は壊したけど、森のマナが乱れてる」
リザの『魔視』には、虹色の結界が波打ち、不吉な灰色に濁っていくのが見えていた。
供給を断たれたことで、森がバランスを崩し、禁断症状のように暴れ始めている。
「……毒を抜くには痛みが伴う。中の二人が耐えられればいいが」
カインは森の方角を睨んだ。
信じている。だが、胸の奥で燻る不安は消えない。
彼は拳を握りしめ、次なる標的へと歩き出した。
止まっている暇はない。外からの手助けが、中の試練を加速させているとしても、前に進むしかないのだ。
◇
一方、森の中。
「歌う洞窟」を抜けたコレットとエレナは、言葉を失って立ち尽くしていた。
「何これ」
エレナが呟く。
洞窟の出口の向こうには、極彩色の森が広がっているはずだった。
だが、そこに色はなかった。
木々も、地面も、空さえも。全てがモノクロームの、灰色の世界。
甘いお菓子の香りもしない。代わりに漂うのは、古びた紙のような乾いた匂いだけ。
『……くるしい……』
コレットの肩で、ルビィが明滅した。その光は風前の灯火のように弱々しく、ピンク色だった輝きが濁った紫色に変色しかけている。
「ルビィちゃん!?」
『マナが……足りない……。森が、悲鳴を上げてる……』
ルビィがふらりと空中に落ちる。コレットは慌てて両手で受け止めた。
温かかった体が、氷のように冷たい。先ほど分け与えたはずの魔力が、底なしの穴に吸い込まれるように枯渇している。
「しっかりして! 今、また魔力を……」
コレットが栞を輝かせようとしたが、ルビィは弱々しく首を振った。
『だめ……。あなたの魔力まで、吸われちゃう……』
この空間そのものが、飢えている。
カインたちが外で供給源を断ったことで、穢れに侵された森自体が、飢餓状態に陥り、内部の生命力を無差別に喰らい尽くそうとしているのだ。
「……行こう。ここに留まっていたら、私たちまで色を失うわ」
エレナが警戒を強め、周囲を見回す。敵の気配はない。だが、この静寂こそが最大の敵だ。
足元の草が、踏みしめるたびに灰となって崩れ去る。
二人はルビィを庇いながら、灰色の森を進んだ。目指す「大樹」の方角さえ、この色のない世界では曖昧だ。
ザザッ……。
不意に、ノイズのような音がした。エレナが反応し、即座に振り返る。
「誰?」
誰もいない。ただ、灰色の木々の影が、不自然に長く伸びていただけだ。
だが、その影が揺らめき、立体的な質量を持って立ち上がった。
形は定まらない。人型のようでもあり、獣のようでもある、黒いシルエット。
「……新手の番人ね」
エレナがレガースを鳴らし、構える。
「悪いけど、通してもらうわよ!」
踏み込み。一閃。
エレナの鋭い回し蹴りが、影の頭部を捉えた。岩をも砕く衝撃。
だが。
スカッ。
「……え?」
足ごたえがない。
エレナの蹴りは、影をすり抜け、空を切った。
物理的な実体がない。
影はゆらりと揺らめき、鞭のように腕を伸ばしてエレナに反撃した。
「くっ!」
エレナがバックステップで躱す。
影の腕が地面を叩き、そこにあった岩が音もなく「消滅」した。
破壊ではない。存在そのものが、影に塗りつぶされて消えたのだ。
「先輩! 魔法を!」
「無駄よ! 理由は分からないけど通用しない!」
エレナが掌から風の刃を放つ。だが、それも影に飲み込まれ、何の効果も発揮しない。
物理も、魔法も通じない。ただそこに存在する「虚無」。
『……逃げて……』
腕の中で、ルビィが呻いた。
『あれは……「忘れられたもの」たちの成れの果て……。触れたら……消えちゃう……』
忘れられたもの。
その言葉に、コレットの心臓が早鐘を打った。
記憶を失った転生者の末路か。あるいは、浄化されずに消えていった精霊たちの怨嗟か。
影が増える。一体、二体、十体。
灰色の森の至る所から、虚無の影が湧き出し、二人を取り囲んでいく。
「……厄介ね」
エレナが額の汗を拭う。
攻撃が通じない相手に、どう勝つか。撤退しようにも、帰り道などとっくに灰に埋もれている。
「コレット、私の後ろに!」
エレナがコレットを庇う。
だが、影たちはあざ笑うように、地面を滑って死角から忍び寄る。
コレットの足元から伸びた手が、彼女のブーツを掴もうとした。
「――っ!」
コレットは反射的にアズライトの栞を握りしめた。
カインの顔が浮かぶ。守られるだけじゃない。私は、戦うと決めたんだ。
(消えないで……!)
攻撃ではない。防御でもない。
ただ、その存在を「認める」ための光。
コレットの魔力が、青い波紋となって広がった。
影に触れる。すると、影の輪郭が微かに震え、黒一色だったその姿に、ぼんやりとした「色」が戻り始めた。
「……効いてる?」
エレナが目を見開く。
コレットの「異界の魔力」だけが、この世界の法則(虚無)に干渉できる唯一の鍵。
だが、影の数は多すぎる。全てを色付け、実体化させるには、コレットの魔力が足りない。
ルビィの苦しそうな呼吸が、タイムリミットを告げていた。




