93話 水面の旋律
「掴まったわよ!」
エレナの声が響く。彼女は暴れる湖の主――巨大な水竜の背中に飛び乗り、鱗の隙間に食い込んだ黒い茨を両手で掴んでいた。
主が苦痛に身をよじり、激しく湖面を叩く。水しぶきが嵐のように舞い上がり、エレナを振り落とそうとする。
「きゃっ……!」
「離さないで、コレット! あの子の痛みを抑えて!」
エレナが叫ぶ。その足――金属製のレガースが、主の背中にしっかりと踏ん張っている。
揺れるたびにスカートが花のように開き、金色の髪が水に濡れて輝く。
「はいっ!」
コレットは岸辺でアズライトの栞を掲げ続けた。青い光が主を包み込む。
カインに教わった「現象への干渉」。
セレーナに教わった「魔力の循環」。
その二つを組み合わせ、主の中で暴走する穢れたマナを、自分の清浄なマナで洗い流すイメージ。
(痛いの、飛んでいけ……!)
祈りではない。明確な意思を持った術式。光の波紋が主の巨体を包み込み、強張っていた筋肉を弛緩させる。
「グゥ……」
主の動きが一瞬、止まった。
「今よ!」
エレナが全身に魔力をみなぎらせる。強化された筋力で、黒い茨を一気に引き抜く。
「ええええいッ!!」
バキバキバキッ!
不快な音を立てて、茨が根元から引き抜かれた。同時に、傷口から黒い霧が噴き出す。
「消えなさい!」
エレナは引き抜いた茨を空中に放り投げ、回し蹴りを叩き込んだ。
足先に纏った風の精霊魔法が炸裂し、茨を粉々に粉砕する。
黒い霧は光の粒子に浄化され、湖へと溶けていった。
「グルルルゥ……」
主が長く、安らかな鳴き声を上げた。
すると、濁っていた湖の水が一瞬にして澄み渡り、エメラルドグリーンの輝きを取り戻した。
水面から無数の光の泡が立ち昇り、空中で弾けて音楽を奏でる。ポロロン、シャララン……。
それは、森全体を祝福するような、美しい水の旋律だった。
「きれい」
コレットが見惚れていると、主が静かに岸辺へと近づいてきた。
その大きな瞳が、コレットとエレナを優しく見つめている。
主は頭を下げ、コレットの目の前に「何か」を吐き出した。
それは、透き通るような水色の宝石だった。
『ありがとう、小さき導き手よ』
頭の中に、直接声が響いた気がした。
「これ……くれるの?」
コレットが宝石を手に取ると、ひやりとして、でもとても温かい力が流れ込んでくる。
『水の精霊石』。
持っているだけで水属性の魔法を強化し、水難除けのお守りにもなる秘宝だ。
『そして、勇ましき舞姫よ。その強き足に祝福を』
主がエレナの方を向き、鼻先で彼女のレガースに触れた。
瞬間、レガースが水色の光を帯び、さらに軽く、強固な質感へと変化した。
「ふふ。素敵なプレゼントをありがとう」
エレナは主の鼻先を撫でて微笑んだ。
主は満足げに身を翻し、湖の底へと帰っていった。
「やったわね、コレット」
「はい、先輩」
二人は顔を見合わせ、またハイタッチをした。今度は水しぶき付きだ。
◇
湖畔の木陰。
エレナが優雅にティーカップを傾ける。ルビィがどこからか持ってきた「星の雫の紅茶」と、ぷるぷるしたゼリーの実。戦いの後のティータイムだ。
「ふぅ……。一仕事終えた後のお茶は格別ね」
「とっても落ち着きますぅ……」
コレットが天を見上げながら息を吐く。
「ふふ、なんだか、コレット、お兄ちゃんみたい」
「えっ? お兄ちゃんって、先輩の?」
「ええ。お兄ちゃんもよくそうやっているから」
エレナは遠い目をした。
「あの人、剣の腕は超一流なんだけど、性格にちょっと問題があってね……。いつも飄々としていて。ま、肝心な時にはいつも助けに来てくれるから、結局のところ頼りにはなるんだけどね」
「あ、それ分かります!」
コレットが身を乗り出した。
「カインさんもそうです! 無愛想で、すぐ『面倒だ』って言うし……でも、ここぞという時は必ず助けてくれるんです」
「あら、似たもの同士ね?」
二人はクスクスと笑い合った。
「早く会えるといいわね」
コレットは、ハッとした。
ここでの時間は、どこか現実味がなくて、夢を体験しているかのようで、でもそれでも少しだけ楽しくて。
ふと、自分がここに来た真意を、コレットはまだ知らない気がした。
「……ねえ、ルビィちゃん」
コレットは、空中で紅茶の湯気を吸い込んでいる精霊に声をかけた。
「そろそろ本当のことを教えてくれないかな? どうして、私と先輩を選んだの?」
ルビィはピクリと動きを止め、パタパタと羽ばたいてコレットの目の前に来た。その光る瞳(のような模様)が、真剣な色を帯びる。
『……そうね。もう隠す必要もないわね』
ルビィは二人を見回した。
『エレナを選んだのは、あなたが精霊に近い存在だからよ。その体には、かつてあなたの命を救った微精霊が融合してる。だから、この森の濃度にも耐えられるし、私たちと言葉が通じるの』
「……やっぱり、そうだったのね」
エレナは自分の手を見つめ、納得したように頷いた。
『そして、コレット。あなたを選んだのは……魂の色よ』
「色?」
『ええ。異界の魂だから、というだけじゃないわ。あなたの魂は……とても綺麗なの』
「異界から来たこと、どうして知ってるの?」
『見ればわかるの。私たちはそういう存在だから』
ルビィはコレットの頬に、そっと体を寄せた。温かい光が伝わってくる。
『誰かを救いたい、守りたいっていう純粋な願い。それが、そのアズライトの栞を通して、すごく澄んだ「青色」になってあなたの中で輝いてる。……私、その光が大好きなの』
「大好き……?」
『うん。ずっと見ていたいって思ったの。だから、こうして案内してあげてるってわけ!』
ルビィは照れくさそうに光を明滅させ、コレットの肩に止まった。
純粋な好意。気まぐれな精霊が、一人の少女に興味を持った証。
彼女はまだ何かを隠している気がする。でも騙されているような感覚ではない。
「……ありがとう、ルビィちゃん。私の方こそ、ルビィちゃんのその身体の光、好きだよ」
コレットはルビィを優しく撫でた。
小さくて温かい、新しい友達。カインに貰った栞と、この小さな精霊。二つの純粋な青い光が、コレットの心を満たしていく。
「さあ、休息もとったし、行きましょう。次のエリアは『歌う洞窟』よ」
「そこを抜ければ、大樹まではもうすぐだわ」
「はい!」




