88話 神秘の森 妖精郷 プリズマリア
商隊の馬車は、鬱蒼とした森の中を進んでいた。
街道とは名ばかりの、獣道に近い悪路だ。
頭上を覆う巨木が陽光を遮り、昼間でも薄暗い緑の回廊が続いている。
「ねえ、なんか変じゃない?」
幌から顔を出していたリザが、低い声で呟いた。
彼女は周囲の森を凝視している。
「変? 何か気になるの?」
「静かすぎる。鳥の声もしないし、風の音も止まってる。それに」
リザは目を細めた。彼女の『魔視』には、物理的な景色とは別の光景が映っている。
「色が、おかしい。森全体のマナが、虹色に揺らいでる。まるで、森そのものが生き物みたいに、呼吸してる」
カインが手綱を握る手に力を込めた。
リザの感覚は鋭い。彼自身も、肌にまとわりつくような濃密な気配を感じていた。敵意ではない。だが、人間を拒絶するような、圧倒的な「圧」。
「……この森は『迷わずの森』と呼ばれているが、地元の古老は『精霊の通り道』とも呼ぶらしい」
カインが静かに言った。
「精霊の通り道……?」
「ああ。現世と精霊界の境界が曖昧な場所だ。不用意に踏み込めば、二度と戻れない」
コレットは思わず胸元のアズライトの栞を握りしめた。
栞が、微かに熱を帯びている気がした。青い光が、呼応するように明滅している。
キィィィン……。
突如、耳鳴りのような音が響いた。音ではない。脳に直接響く、マナの共鳴音だ。
「……っ!?」
コレットが耳を押さえる。
同時に、周囲の景色が歪んだ。木漏れ日が、緑から白へ、そして虹色へと変色していく。
「な、なに……!?」
リザが叫ぶ。御者台のカインも異変に気付き、立ち上がった。
「止まれッ!」
カインが馬を止める。
だが、遅かった。森全体が、強烈な発光現象に包まれる。
物理的な光ではない。圧倒的な質量のマナが、空間そのものを塗りつぶしていく。
「コレット! リザ! 俺の近くに!」
カインが御者台から飛び降り、幌の中へ手を伸ばす。コレットも手を伸ばした。
「カインさん……!」
指先が触れそうになる。
その瞬間、霧の濃度が爆発的に増した。
「――おいで」
誰かの声が聞こえた気がした。コレットの耳元で囁く声。
次の瞬間、強烈な浮遊感がコレットを襲った。馬車の床が消え、重力が逆転する。
「コ……ッ……ト!!」
カインの声が遠ざかる。
伸ばした手は空を切り、白い闇が二人を分断した。世界が反転し、光の中に吸い込まれていく。
◇
「……んん?」
コレットは目を開けた。
最初に飛び込んできたのは、目が痛くなるほど鮮やかな色彩の洪水だった。
「うわぁ……!」
そこは、絵本の中のような世界だった。
空は淡いピンク色で、雲の代わりに金色の光の粒が川のように流れている。
地面には、フカフカのスポンジケーキのような苔が生い茂り、木々の枝には宝石のような果実が鈴なりになって輝いていた。
重力が弱いのか、タンポポの綿毛のような光が、あちこちでふわふわと浮遊している。
「え……ここ……天国?」
コレットが起き上がると、体が羽毛のように軽い。カインもリザもいない。
馬車もない。
でも不思議と、怖さはなかった。
空気中に満ちるマナが、甘いお菓子のような香りで、コレットの体を優しく包み込んでくれているからだ。
「おーい! 起きたー?」
突然、目の前にポンッ! と何かが弾けるように現れた。
バレーボールくらいの大きさの、ピンク色に光る球体。
背中には小さな天使の羽が生えていて、パタパタと忙しなく動いている。
「え、球?」
『球じゃないわよ! レディに向かって失礼ね!』
球体がプリプリと怒った。よく見ると、光の中に目と口がある。
『私はルビィ! この「神秘の森 妖精郷 プリズマリア」のスーパーナビゲーターよ!』
「プ、プリズマリア……?」
『そう! 選ばれた魂しか入れない、世界で一番キラキラした場所! 歓迎するわ、新入りちゃん!』
ルビィはコレットの周りをくるくると飛び回った。
『うんうん、近くで見るとますますイイ色してるわね! あなたの魂、とっても澄んでて美味しそう!』
「お、おいしそう……?」
『比喩よ、比喩! ……まあ、ちょっと事情があって連れてきちゃったんだけど、安心して。ここには怖い魔獣もいないし、意地悪な人間もいないわ』
ルビィはウインク(したように光を明滅)させた。
『さあ、ついてきて! あなたより先に来てる「先輩」が待ってるわよ』
「先輩?」
コレットは首を傾げながらも、ルビィの後を追った。
地面を蹴ると、ポヨンと体が浮く。まるで月面歩行のようだ。
楽しい。カインさんたちとはぐれた不安はあるけれど、このワクワクする感覚は抑えられない。




