86話 さようなら。もうひとりの私。
最果ての岬に、魔力の風が渦巻く。
カインは、ジークが残した術式に従う。
持ち主が最も思い入れのある、長く身につけたものを一時的な触媒とし、それを中心として魔法陣を描く。
コレットはアズライトの栞を触媒として選んだ。
カインが魔法陣を丁寧に描く。
複雑な幾何学模様が、青白い光を帯びて浮かび上がる。
「……準備はいいか」
カインが問うと、コレットは魔法陣の中央に進み出た。
彼女の表情は穏やかだった。
恐怖も、迷いもない。
ただ、これから失うものへの静かな敬意と、手に入れる未来への希望だけがある。
「はい。お願いします、カインさん」
コレットは胸元の栞を両手で包み込んだ。
温かい。この温もりだけは、忘れたくない。忘れられない。
「始めるぞ」
カインが呪文を紡ぐ。
それは詠唱ではない。純粋な魔力の操作による、魂への干渉コード。
アズライトの栞が激しく輝き、天に向かって光の柱を放つ。
オーロラと共鳴し、世界の色が反転していく。
(……さようなら)
コレットは目を閉じた。
瞼の裏に、懐かしい景色が浮かぶ。
美しい王宮の庭園。
優しい父と母。そして、大好きだった兄と妹。
それらが、泡沫のように弾け、光の粒子となって空へ昇っていく。
『ありがとう』
誰かの声が聞こえた気がした。
それは、彼女の中にいた「レイネシア」の声だったのかもしれない。
悲劇の記憶と共に、愛された記憶もまた、還るべき場所へと旅立っていく。
「……ッ」
コレットの体から力が抜ける。
自分を形作っていた何かがごっそりと抜け落ち、代わりに新しい何かが満ちてくる感覚。
カインとの旅の記憶。リザとの笑い声。セレーナとの特訓。
それらが、空っぽになった場所に流れ込み、強固な「楔」となって魂を繋ぎ止める。
「……う、ぁ……」
光が収まり、静寂が戻った。
コレットはその場に崩れ落ちた。カインが慌てて駆け寄り、抱き留める。
「コレット!」
「……カイン、さん?」
コレットが薄く目を開けた。
その瞳は、以前よりも澄んでいて、どこか幼い光を宿していた。
「……私、永い夢を見ていました」
「夢?」
「はい。遠い国の、お姫様になる夢です。……とても悲しい夢でしたけど、最後に優しい騎士様が助けてくれたんです」
コレットは微笑んだ。
その笑顔には、もう陰りはない。
過去の悲劇は、ただの「夢」として処理され、彼女の人格から切り離されたのだ。
「……そうか」
カインは安堵の息を吐き、コレットの頭を撫でた。
「もう大丈夫だ。夢は終わった」
「はい! ……あ、あれ? 私、なんで泣いてるんでしょう?」
コレットは頬を伝う涙に気づき、不思議そうに拭った。
「悲しくないのに。……なんだか、とっても温かい気持ちなのに」
それは、消えていった「レイネシア」が残した、最後の贈り物だったのかもしれない。
貴女は生きて。幸せになって。
そんな願いが、涙となって溢れ出ているようだった。
「……よかったね、コレット」
リザが目を赤くしながら近づいてきた。
彼女もまた、コレットの決断と、その結果を見届けていた。
「うん。リザちゃんも、ありがとう」
コレットは立ち上がり、リザに抱きついた。
二人の少女が笑い合う。
その光景を見て、カインは空を見上げた。
オーロラが薄れ、夜明けの空が広がっている。
「帰るぞ。腹が減った」
いつもの言葉。
だが、その響きは以前よりもずっと軽く、明るかった。
騒がしい日常が戻ってくる。




