83話 消えゆく色 残る熱
吹雪は止んでいた。
だが、空気は凍りつくように冷たく、吐く息すら白い氷の結晶となって舞い散る。
一行は、大陸の北限を目指して歩いていた。
「見て。空が光ってる」
リザが空を指差した。
昼間だというのに、北の空には揺らめく光の帯――オーロラが掛かっている。
それは単なる大気現象ではない。
地脈から溢れ出したマナが、空へと昇っていく「魂の還流」の可視化だ。
「あれが『源流』か」
カインは目を細めた。
美しい。だが、同時に恐ろしくもある。
あそこへ近づくほど、この世界の理が曖昧になり、現世と幽世の境界が溶け合っていく気配がする。
「……綺麗ですね」
コレットが呟いた。
彼女は厚手のコートに身を包み、その両手でカインとリザの手を握って歩いている。
その足取りはしっかりしている。体調も悪くなさそうだ。
だが、カインは気付いていた。
ここ数日、彼女の口数が極端に減っていることに。
「コレット。……気分はどうだ」
「平気です。ただ、少し頭がふわふわします。夢の中にいるみたい」
コレットは微笑んだ。
その笑顔には、以前のような不安や恐怖の影がない。
まるで、憑き物が落ちたように穏やかで……透明だ。
「ねえ、カインさん」
「なんだ」
「私、一つ思い出したんです」
「……何をだ?」
カインは身構えた。
消えかけた記憶が戻ったのか。それとも――。
「私、お花が好きだったんです。青くて、小さくて、とても綺麗な花」
コレットは胸元のアズライトの栞を撫でた。
「実家の庭に、たくさん咲いていて……。父様と一緒に、水をあげていました」
「……そうか」
「はい。でも……不思議なんです」
コレットは首を傾げた。
「その花の名前は『アズライト』だって、カインさんが教えてくれましたよね?」
「ああ」
「でも、私が前世で過ごした国では……別の名前で呼んでいた気がするんです」
「ああ、それならその国の名前と同じだ」
「そうなんですか?」
ミオソティス。
彼女の祖国の名前であり、彼女の国に咲く、アズライトと瓜二つの花の名前でもある。
彼女の記憶の残滓からそれを読み取った時、カインはそれを知った。
そして、その事はリザにも話してあった。
コレット自体は、その花の名から国名が付けられたことを忘れているようだったが、今それを伝えた。
これで思い出せるだろう。大好きな花の名を。
コレットは、国名を思い出そうとし眉を寄せた。
「……うーん。思い出せません」
そして、すぐにパッと明るい顔に戻った。
「ま、いっか! アズライトの方が絶対素敵な名前ですもんね!」
「……」
カインは足を止めた。
リザも、息を飲んでコレットを見つめている。
彼女は今……
――前世で自分の生きた国の名を忘れた。
それも、「忘れたことを悲しむ」という感情ごと、すっぽりと抜け落ちてしまった。
苦痛はない。恐怖もない。
ただ、最初から無かったことのように、綺麗に消滅したのだ。
カインの脳裏にジークの言葉がよぎる。
『いずれは転生したことも忘れるんじゃねぇかな?』
「……コレット」
「はい?」
「お前の、国の名前は……」
カインは言いかけて、口を噤んだ。
教えてどうする。
忘れたことを思い出させ、また喪失の恐怖を味わわせるのか。
それは、エゴだ。
彼女は今、笑っている。
過去を失った空白を、自分たちとの「今」で埋めて、幸せそうに笑っているのだ。
「……いや。なんでもない」
カインはコレットの手を強く握り直した。
その手は温かい。
記憶が消えても、彼女の命はここにある。
魂は、まだここにある。
「行こう。……もうすぐだ」
カインは前を向いた。
オーロラの輝きが増していく。
源流は近い。
そこで何が待っていようと、この温もりだけは絶対に離さない。
咎人は、記憶の消えゆく少女の手を引き、光の彼方へと歩を進めた。




