78話 冷たい天秤
村外れの雪原。
結界の縁に立つ一本の枯れ木の下で、コレットは膝を抱えていた。
吹雪の音だけが、世界の全てを塗りつぶしている。
「……寒くない」
コレットは自分の掌を見つめた。
感覚がない。寒さで麻痺しているのではない。
自分の心が、この白い世界に溶けて希薄になっていくような、不思議な浮遊感があった。
(……考えなきゃ)
コレットは必死に思考を巡らせた。
今、私にできることは何だろう。
前世の記憶は、砂時計の砂のように残り少なくなっている。
名前も、顔も、愛された記憶も、もうほとんど思い出せない。ヴィクターさんは言っていた。
記憶が消えても、私は死なない。
この世界に適応して、完全に「コレット」として生きていくのだと。
(でも……)
それは、本当に「私」なのだろうか。
父様や母様のことを忘れて、何もなかった顔をして生きていく未来。
それは、裏切りではないのか。
大切なものを失ってまで手に入れる「生」に、どれほどの価値があるのだろう。
――今の私は……誰?
今の私がコレットなの? それとも、名前も忘れた、前世の私?
この身体を、この脳を支配している私は、どっちの私?
(どうせ、過去の私は消えてしまう)
思考が、冷たく澄んでいく。
この村の人たちは困っている。
助かる方法は、私の命を捧げること。
簡単な計算だ。
過去を失い、空っぽになろうとしている私の未来と、これから生きていく村人たちの命。
天秤にかければ、どちらが重いかは明白だ。
「……役に、立ちたいな」
それは、彼女なりの強さだった。
ただ忘却を待つのではなく、最後に「今の私」として意味のあることをしたいという、切実な願い。
けれど、彼女は気付いていなかった。
その思考自体が、この村に漂う「停滞」と「死への甘受」という毒に侵された結果であることに。
泥臭く生きたいと願うことよりも、綺麗に終わることを選ばせる、白銀の呪い。
「馬鹿な計算だな」
頭上から、低い声が降ってきた。
コレットが顔を上げると、息を切らせたカインが立っていた。
その肩には雪が積もっている。必死に探してくれたのだ。
「カイン、さん……」
「探したぞ。体温が下がっている。立て」
カインは手を差し伸べた。
だが、コレットはその手を取らなかった。
「……カインさん。私、計算してみたんです」
コレットは、透き通るような笑顔で言った。
その瞳は、恐ろしいほどに澄んでいる。
「私の記憶が消えるまで、多分、もうあと少しです。そうしたら、私はカインさんの知っている『コレット』じゃなくなるかもしれません。……生き続けるとしても、それはもう、別の誰かです」
「黙れ」
カインが遮った。
だが、コレットは言葉を止めなかった。止まれなかった。
「だったら、その前に……私のこの命一つで、村の災厄が消えるなら、それはすごく効率的でお得な取引だと思いませんか? どうせ中身が消えるなら、最後に誰かの役に立って……」
「ふざけるなッ!!」
カインの怒号が、吹雪を切り裂いた。
コレットがビクリと震える。
カインは彼女の胸倉を掴み、強引に立たせた。その青灰色の瞳が、怒りと、そして深い悲しみで揺れている。
「効率だと? お得だと? ……いつからそんな、商人のような口を利くようになった」
「だって……! 私、怖いです。忘れて、空っぽになって、のうのうと生きていく自分が許せない……!」
「それが生きるということだ!」
カインの手が震えている。
目の前の少女が、かつて国を救うために自らを犠牲にした王女と重なる。
あの時もそうだった。
愛する父と刺し違えてでも、その罪の連鎖を断ち切る決断をした。
その自己犠牲が、どれほど残された者を傷つけるかも知らずに。
「この村の空気に当てられたか。正常な判断じゃない。いつものお前ならそんな判断はしない」
カインはコレットを抱き寄せた。
冷たい。氷のように冷え切っている。肉体だけでなく、心まで凍りついている。
「コレット。よく聞け」
カインは耳元で囁いた。
「お前は、自分が消えるのが怖いと言ったな。俺もだ」
「え……?」
「俺は、お前やリザがいなくなるのが怖い。お前が勝手に納得して、綺麗な思い出になって消えるのが……たまらなく腹が立つ」
それは、カインが初めて口にした、弱音に近い本音だった。
最強の魔法士としてではなく、一人の人間としての。
「過去が消えても、お前はお前だ。俺が覚えている限り、お前は消えたりしない。だから、勝手に自分の価値を決めるな。自分の価値なんて、死ぬ時に誰かに決めてもらえばいい」
カインの体温が、コレットに伝わる。熱い。
その熱が、凍りついていたコレットの思考を溶かしていく。
「あ……」
私が死んだら、この人は悲しむ。
生きることに価値がないなんて、勝手な思い込みだった。役に立つとか、立たないとか。
そんな理屈で割り切れるものじゃなかったはずなのに。
「ごめんなさい、カインさん……」
「……分かればいい」
カインは不器用に彼女の頭を撫でた。その時。
「……見つけたぞ」
吹雪の向こうから、数人の影が現れた。
自警団のエリックと、武装した村人たちだ。
彼らの目は血走り、追い詰められた獣のようにぎらついている。
「やはり、ここにいたか。……娘、来てくれ」
エリックが氷の槍を構えた。
「儀式の準備は整った。お前が頷けば、全てが終わるんだ」
「……」
コレットはカインの服を握りしめた。
もう、迷いはない。死にたくない。
カインさんと一緒にいたい。
たとえ記憶を失っても、生きて、新しい思い出を作っていきたい。
それが、私の本当の願い。
カインはコレットを背に庇い、静かに手をエリックに向けた。
「……話は終わりだ。失せろ」




