7話 路地裏の事情
喧騒が遠ざかっていく。
華やかな大通りから一本入っただけで、空気は湿り気を帯び、ドブと黴の臭いが鼻をつく。
陽の光が届かない路地裏。そこは、表の社会から弾き出された者たちが吹き溜まる、街の影だった。
カインは迷いのない足取りで、汚れた石畳を進んでいく。
その視線の先には、常人には見えない微かな光の道標が見えていた。
「アズライトの栞」に込めた魔力の残滓だ。まるで道案内のように、盗人が逃げたルートを正確に示している。
「……カインさん、待ってください」
背後でコレットが小走りに付いてくる。
息が上がっているが、その表情は必死だ。
彼女にとって、あの栞は単なる魔道具ではない。消えゆく記憶を繋ぎ止める、唯一の楔なのだ。
「遅れるな。残滓が消える」
カインは速度を緩めずに言ったが、その声色は叱責というよりは忠告に近かった。
相手はプロだ。時間をかければ、魔力の痕跡を消す術を使われる可能性もある。
「ごめんなさい……。私が、ぼんやりしていたせいで」
「過ぎたことを気にするな。次は気をつければそれでいい」
カインは短く返し、意識的に歩幅を狭めた。
コレットが無理なくついて来られる速度。
その無言の配慮に、コレットは胸を熱くしながら、新しいブーツで泥濘んだ地面を踏みしめた。
◇
追跡は二刻ほど続いた。
街の再開発から取り残された、廃墟同然の旧市街区。
崩れかけた煉瓦造りの倉庫や、窓の割れた空き家が並ぶ、人気の絶えた場所だ。
カインが足を止めたのは、その一角にある古びた礼拝堂の前だった。
屋根は落ち、壁は蔦に覆われている。入り口の扉は朽ち果て、暗い口を開けていた。
「……ここか」
カインは目を細めた。光の道標は、この礼拝堂の奥へと続いている。
「あの……ここに、あの子が?」
「ああ。随分と寂れたねぐらだ」
カインは足音を消し、慎重に中へと踏み入った。コレットも慌てて口元を押さえ、息を殺して続く。
礼拝堂の中は薄暗く、埃っぽい空気が満ちていた。
天井の崩れた隙間から差し込む陽の光が、埃の粒子を照らし出し、祭壇の前に座り込む小さな影を浮かび上がらせていた。
橙色の髪。猫のようなシルエット。
あの大通りでぶつかってきた少女だ。
彼女は盗んだばかりの「アズライトの栞」を光にかざし、溜息をついていた。
「……綺麗だねぇ」
少女の独り言が、静寂に響く。
「こんな純度の高い結晶、見たことないや。これなら、ボスの機嫌も直るかな」
彼女の声には、盗みに成功した高揚感はない。
あるのは、重苦しい義務感と、諦めにも似た疲労の色だった。
少女は栞を懐にしまおうと、立ち上がり――
「――随分と熱心な品定めだな」
カインが声をかけると同時に、少女の肩が跳ね上がった。
バッ、と振り返る。その動きは俊敏で、野生動物のようだ。
逆光の中に立つカインの姿を認めると、少女の顔が驚愕に歪んだ。
「嘘……っ!? なんでここが……」
「詰めが甘い。獲物に糸がついているのも気付かずに持ち帰るとはな」
カインはポケットに手を突っ込んだまま、ゆっくりと距離を詰める。
殺気はない。ただ、悪いことをした子供を見つけた時のような、静かな威圧感だけがあった。
「か、返して……っ!」
カインの背後から、コレットが叫んだ。
その悲痛な声に、少女の視線が一瞬コレットに向く。だが、すぐに鋭い警戒の色が戻った。
「嫌だね! これは私が頂いたんだ。返すわけにはいかない!」
少女は懐からナイフを抜き、低い姿勢で構えた。
刃渡りの短い、扱い慣れた短剣だ。
「来ないでよ! 近づくと痛い目見るよ!」
「威勢は認めるが、そんなもので俺をどうにかできると思わんほうがいいぞ」
カインは呆れたように鼻を鳴らした。
少女の手は微かに震えている。それは恐怖からか、それとも別の理由か。
カインは一歩、また一歩と近づく。少女の間合いに入る。
「く、来るなっ!」
少女が踏み込み、鋭い突きを放った。
狙いは正確。喉元への一撃。
だが、カインにとっては、猫がじゃれついているのと変わらない。
「狙うなら、声を掛けずに奇襲しろ」
カインは避けもしなかった。
ただ、指先でナイフの側面を軽く弾いただけだ。
キンッ、と硬質な音が鳴り、少女の手からナイフが弾き飛ばされる。カランカランと音を立てて、凶器が床を転がった。
「うそ……っ」
少女は呆然と自分の手を見つめた。何が起きたのか理解できていない。
カインは無防備になった少女の目の前に立ち、静かに手を差し出した。
「返せ。お前のモンじゃない」
淡々とした要求。
少女は唇を血が滲むほど噛み締め、壁際まで後退った。その瞳に涙が溜まる。
「……だめ。渡せない」
「渡せ」
「これを渡せば……あいつらが、また来る。みんなを連れて行かれちゃう……っ!」
少女の叫び声が、廃墟の礼拝堂に木霊した。
それは、盗人の開き直りではない。追い詰められた獣の、悲鳴のような懇願だった。
「みんな……?」
コレットがカインの横から顔を出した。
少女の視線が、礼拝堂の奥――祭壇の裏にある、隠し扉の方へと向けられていることに気付く。
そこから、微かに何かの気配がした。息を潜めるような、小さな、たくさんの気配。
「……お前、一人じゃないのか」
カインが眉を顰めた時だった。
隠し扉が僅かに開き、そこから小さな頭が覗いた。
ボロボロの服を着た、五、六歳ほどの子供だ。
「リザねえちゃん……? 大丈夫……?」
怯えた声。
それを聞いた瞬間、少女――リザの表情が、戦士のそれから「姉」の顔へと変わった。
「っ! 出てきちゃダメ! 隠れてて!」
リザは子供を庇うように両手を広げ、カインを睨みつけた。
その瞳には、先ほどまでの打算や余裕はない。あるのは、命を懸けて守るべきものを背にした、必死の覚悟だけだった。
「お願い……これだけは見逃して。あいつらに上納金を払わないと、この子たちが……」
リザの声が震える。
カインは手を下ろした。
ただの盗難事件ではない。その裏に、もっとドブ臭い事情が絡んでいる。
カインの「面倒事センサー」が、激しく警鐘を鳴らしていた。
「……チッ」
カインは大きく舌打ちをし、頭をガシガシとかいた。
一番嫌いなパターンだ。
見なかったことにして帰るには、目の前の少女と子供の視線が、あまりにも痛々しすぎた。




