76話 凍てつく記憶
フロストヘイムでの生活は、静寂そのものだった。
窓の外では常に吹雪が荒れ狂っているが、厚い氷の壁に守られた屋内は、時間が止まったかのように静かだ。
「おはよう、コレット」
カインが薪をくべながら声をかける。
コレットは毛皮のベッドから身を起こし、ぼんやりと周囲を見回していた。
その瞳は、まだ夢の中を彷徨っているように焦点が定まっていない。
「……あ、おはようございます。カインさん」
数秒の遅れ。
カインは眉をひそめた。
以前なら、目が合った瞬間に返ってきたはずの挨拶。
思考と認識の間に、見えない靄がかかっているようだ。
「気分はどうだ」
「平気です。……ただ、少し頭が重くて」
コレットはこめかみを押さえた。
彼女の中にある「前世の記憶」が、この村の停滞した空気に引かれて、急速に抜け落ちようとしている。
それを繋ぎ止めるための楔――アズライトの栞が、微かに明滅していた。
「今日は安静にしていろ。リザと一緒に、村の様子を見てくる」
「私も行きます!」
コレットが反射的に立ち上がる。
だが、その足元がおぼつかず、よろめいた。
「無理をするな」
カインが支える。
細い肩。触れるだけで折れてしまいそうな儚さ。
「……置いていかないでください」
コレットはカインの服を掴んだ。
その手は震えている。
「一人になると……自分が誰なのか、分からなくなりそうなんです。ここがどこで、私が何のためにここにいるのか……全部、雪に埋もれて消えてしまいそうで」
それは死への恐怖ではなく、存在の消失への恐怖。
カインは、震える彼女の背中を、不器用ながらも強く抱き寄せた。
「消えはしない。俺がいる」
「……」
「お前が忘れても、俺が覚えていると言っただろう。安心しろ」
カインの体温が、冷え切ったコレットの心を溶かしていく。
絶対的な守護者。
彼がいてくれる限り、自分は自分でいられる。
「……はい。待っています」
コレットは小さく頷き、ベッドに戻った。
カインはそれを見届け、リザと共に小屋を出た。
外は相変わらずの極寒だった。
リザは防寒具を着込み、鼻先を赤くしながらカインの後ろをついて歩く。
「……ねえカイン。コレット、大丈夫なの?」
リザが心配そうに尋ねる。
彼女の『魔視』には、コレットの魂から記憶という「情報」が、細い糸のように空へ吸い上げられていくのが見えていた。
その糸は、北の空――オーロラの彼方へと伸びている。
「……このままだとまずいな」
カインは短く答えた。
「この村の環境が、還流を加速させている。……早めにここを出る必要がある」
「でも、この吹雪じゃ無理だよ。一歩出たら遭難確定だもん」
リザが空を見上げる。
結界の外は、視界ゼロのホワイトアウトだ。
「族長に話を聞く。この異常気象の原因と、『白き災厄』についてな」
カインは集会所へと足を向けた。
村人たちの視線が刺さる。
彼らは異邦人を警戒しているが、同時にコレットの持つ「青い光」に救いを求めてもいる。
その矛盾した態度の裏に、この村が抱える問題があるはずだ。
「待て」
カインが足を止めた。
集会所の前で、数人の村人が言い争っている。
その中心にいるのは、族長のハラルドと、昨夜は見かけなかった若い男だ。
「ハラルド様! もう猶予はありません! 今すぐ『生贄』を捧げなければ、村は全滅します!」
「ならん! 古き盟約を破るわけにはいかん!」
「しかし、精霊様のお怒りは……!」
生贄。盟約。精霊の怒り。
きな臭い単語が並ぶ。
カインとリザは顔を見合わせ、物陰に身を潜めた。
「……おいおい、穏やかじゃないね」
「ああ。……どうやら、ただの雪山遭難では済まないらしい」
カインの瞳が、鋭く光る。
この村に閉じ込められている原因。
それを排除しなければ、コレットを救うための旅も終わってしまう。
「話を聞かせてもらおうか」
カインは物陰から姿を現した。
驚愕する村人たちを前に、最強の魔法士は不敵に言い放った。
「あんたたちの言う『災厄』とやら……俺たちが祓ってやる。その代わり、この嵐を止めろ」




