73話 忘却の雪原
北の大地は、白一色に塗りつぶされていた。
視界を遮る猛吹雪。
馬車はとっくに放棄し、一行は徒歩で雪山を踏破していた。
「……寒いなんてレベルじゃないね」
リザが防寒コートの襟を合わせ、震える声で言った。吐く息が瞬時に凍りつくほどの極寒。
カインが展開する『熱遮断結界』がなければ、数分で凍死していただろう。
「カイン、あそこ。風が弱まってる場所がある」
リザが『魔視』でマナの流れを読み、安全なルートを指示する。
吹雪で視界はゼロに近いが、彼女の目には風の通り道が色の奔流として見えているのだ。
「助かる。コレット、大丈夫か」
カインが振り返る。
後ろを歩くコレットは、顔色が悪かった。
寒さのせいだけではない。
北へ――「源流」へと近づくにつれて、彼女の様子がおかしくなっている。
ぼんやりと空を見上げたり、同じことを何度も聞き返したりすることが増えた。
「……はい。平気、です」
コレットは気丈に答えたが、その瞳はどこか虚ろで、焦点が定まっていないように見えた。
日没と共に吹雪が強まったため、一行は岩場の洞窟で野営することにした。
カインが魔法で火を熾し、即席の結界で入り口を塞ぐ。風の音が遠ざかり、洞窟内に安らぎが戻る。
「生き返ったぁ……」
リザが火のそばに座り込み、手足をさする。
コレットは壁にもたれかかり、じっと炎を見つめていた。
「……コレット?」
カインが声をかけると、彼女はビクリと肩を震わせた。
「あ……カイン、さん」
「食事だ。温かいうちに食え」
カインは干し肉を入れたスープの椀を差し出した。
コレットはそれを受け取ったが、口には運ばず、不思議そうに椀の中身を見つめている。
「……これ、なんですか?」
「スープだ。嫌だったか?」
「いえ、そうじゃなくて……。私、お腹が空いているのか、分からないんです」
コレットは胸元を押さえた。
「体が……軽くて。半分くらい、どこかに溶けてしまったみたいに、感覚がないんです」
記憶だけではない。
魂が肉体から乖離し始めているのだ。
「還流」の力が強まっている証拠だ。
「……飲め。体温が下がれば、思考も鈍る」
カインは自分のマグカップに、温めたミルクを注ぎ、コレットに渡した。
「ほら、ホットミルクだ。甘くしてある」
コレットはカップを両手で包み込んだ。
温かい。その熱が、冷え切った指先を解かしていく。
「……甘くて……温かい」
コレットが一口飲む。
甘い香りが鼻をくすぐる。その瞬間、彼女の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
「……?」
「お、おい、どうした」
カインが驚いて覗き込む。コレットは首を横に振った。
「分かりません。……分からないけど、すごく懐かしい味がして……でも、誰と飲んだのか、思い出せないんです」
彼女は泣きながら、ミルクを飲み干した。
――前世、レイネシアの記憶。
大切な家族との団欒か、あるいは愛した誰かとの思い出か。
その情景だけが抜け落ち、感情の残滓だけが胸を締め付ける。
カインはハッとして、彼女の髪を見た。
焚き火の明かりに照らされた、栗色の髪。
だが、カインの目には一瞬、それが黄金色に輝く銀糸のように見えた。
月下の陽光。あの日、彼が守りたかった少女の面影。
(……そうか)
カインは悟った。
コレットもまた、彼女の中の「王女」が、消えようとしている。
だが、その喪失の痛みは、かつて自分がフレデリカを失った時の痛みと似ている気がした。
「……無理に思い出さなくていい」
カインはコレットの隣に座り、その肩に優しく自分のコートを掛けた。
「ただ、飲んで寝ろ。……俺が起きている」
「……はい」
コレットはカインの腕に頭を預けた。
安心する匂い。
記憶が消えても、この温もりだけは絶対に消えない。そう信じて、彼女は重い瞼を閉じた。
「……カインって本当に不器用だよね」
リザがニヤニヤしながら見ていた。
「うるさい。見張りをしてろ」
「はいはい。……でもさ」
リザは真剣な目で、洞窟の外――北の空を指差した。
「あっちの方角。ヤバいよ」
「何が見えるんだ?」
「オーロラ。空から、魂みたいな光の川が、逆流して昇っていってる」
最果ての岬。
そこには、世界の理そのものが口を開けて待っている。
「……この吹雪だ。明日は進めんかもしれんな」
カインは外の轟音を聞いた。
自然の猛威。
魔法で防ぐことはできても、天候そのものを変えることは、さすがのカインでも不可能に近い。
どこか、身を寄せられる場所があればいいが。




