幕間 理の彼方
思考が再起動する。
ガリレオが目を開けると、そこは座標の概念が存在しない、純白の空間だった。
天井も、床も、壁もない。無限に広がる白色光だけの世界。
痛みはない。肉体の重みもない。
ただ、純粋な意識だけが、数式のように明瞭に存在している。
「……なるほど。死後の世界、あるいは高次元領域か」
ガリレオは冷静に周囲を観察した。
自身の体を確認する。白衣も、機械仕掛けの義眼もない。生前の姿を模した「概念」としての自分がそこにある。
「やあ。目覚めたかい、天才君」
不意に、声がかかった。
振り返ると、そこに「誰か」がいた。
性別も、年齢も、個としての輪郭さえも曖昧な、光の集合体。
だが、ガリレオは直感した。この空間の管理者だと。
「……君は、神か? それとも死神かね」
「呼び名なんてどうでもいいよ。便宜上、『案内人』とでも呼んでくれ」
案内人は、どこからともなく出現させた椅子に腰掛け、足を組んだ。
「さて、ガリレオ君。君は死んだ。感想は? どんな気分だい?」
「不愉快だ。計算式が美しくない」
ガリレオは即答し、案内人を睨みつけた。
「私は仮説を立てていた。肉体という物質的な器を捨て、純粋なエネルギー体としての魂になれば、物理法則の束縛から解放され、次元の壁を超えられるはずだと」
「ほう?」
「質量を持つ物体が光速を超えるには無限大のエネルギーが必要だ。だが、質量ゼロの魂ならば、理論上は可能だ。……単刀直入に聞こう。私は今、異世界への渡航資格を得たのかね?」
生前、彼が渇望した異界への到達。
死とは、彼にとって終わりではなく、次元跳躍のための最終プロセスに過ぎなかった。
「無理だね」
案内人はあっさりと否定した。
「君にその資格はない」
「資格? ……ふん、徳を積めとでも言うのか? あるいは、前世で理不尽な死を遂げた悲劇の主人公でなければならないと?」
ガリレオは冷笑した。
「そんな感情的な基準パラメータで、魂の還流システムが動いているとは思えんがね」
「いい線いってるけど、物理的にも間違っているよ」
案内人は指を振った。
「君は『魂』を単なるエネルギーの塊だと思っているだろう? だから質量ゼロだと定義した」
「違うのか?」
「違うね。魂とは『情報』だ。記憶、経験、自我……それら膨大なデータが複雑に絡み合った、高密度の情報構造体だ」
案内人は空間に数式のような光の羅列を浮かべた。
「情報は質量を持つ。エントロピーの法則だよ。君の魂は、君が積み上げた知識と執着の分だけ重い。その重さが、君をこの世界の重力圏に縛り付けている。次元の壁を抜けるには、君は『重すぎる』んだ」
ガリレオは眉をひそめた。
情報の質量。その概念は計算に入れていなかった。
「……ならば、記憶を捨てればいいのか? 『記憶の欠如』が転生者に起こる現象だとしたら、それは次元移動のための軽量化プロセスということか?」
「鋭いね。だが、それも半分ハズレだ」
案内人はクスクスと笑った。
「君は『記憶の消失』を、どう定義している?」
「世界による異物排除だ。あるいは、情報の拡散現象。異なるOSにデータを移植した際に起こる、互換性の欠如によるデータの破損」
「君らしい解釈だ。だが、正解は『転送』だよ」
案内人は手をかざした。
光の中に、水が流れるような映像が浮かぶ。
「記憶は消えているんじゃない。『還流』しているんだ」
「……」
「転生者の記憶は、この世界という仮の器から、本来あるべき『時間軸』と『座標』へ向かって吸い出されている」
ガリレオの思考が高速回転する。
記憶が消えるのではない。移動している?
ならば、あの少女――コレットの記憶喪失は、劣化ではなく、何らかの目的を持ったデータのアップロードだというのか。
「……待て。ならば記憶とは、魂を固定する『楔』ではなく、魂を導く『羅針盤』なのか?」
「その両方さ。記憶があるうちは、魂はこの世界に留まる。だが、記憶が全て転送されれば、魂はアンカーを失い、羅針盤に従って元の世界へ――あるいは、再構築された過去へ飛んでいく」
案内人はガリレオの顔を覗き込んだ。
「君にはそれがない。君の魂には、異界へと繋がるパスも、君を呼ぶ『引力』も存在しない。だから、君はどこへも行けない」
論理的な詰み。
ガリレオは沈黙した。彼の理論は、根本的な前提条件を間違えていたのだ。
「……では、私はどうなる?」
ガリレオは問うた。
転生も、異界への到達も不可能ならば、この意識の行き先はどこだ。
「どうにもならないよ」
案内人は肩をすくめた。
「地獄の窯で焼かれるなんてのは、人間が作った御伽噺さ。……あるのは、ただ『無』だけだ」
案内人が指を鳴らすと、白い空間の端が崩れ落ち、漆黒の虚無が顔を覗かせた。
吸い込まれれば、意識も、自我も、存在したという事実さえも分解される、エントロピーの極致。
「君の魂は、あそこで解体されて、ただのマナの素粒子に戻る。……リサイクルだよ。宇宙の総熱量を維持するためのね」
「……そうか」
ガリレオは、意外なほど素直に納得した。
因果応報。自分が他者の命を燃料として消費したように、自分もまた世界の燃料として消費される。
実に合理的で、無駄のないシステムだ。
「……一つ聞きたい。私の死因は何だ? あの男――カインの攻撃か?」
最後の記憶は、圧倒的な魔力の奔流に吹き飛ばされたところだ。
あれほどの出力なら、即死してもおかしくない。
「いいや。君へのトドメは、彼らの攻撃じゃないよ」
案内人はあっさりと否定した。
「あの男は、君を殺さないように極限まで手加減していた。もし彼が本気を出していれば、君なんて肉片すら残らず、魂ごと消し炭になっていたよ」
「……なんだと?」
「君は気絶しただけだ。その後、カインたちの通報で駆けつけた衛兵に引き渡され、地下牢に収監された」
案内人は淡々と告げた。
「君の死因は『老衰』だ。数日後、独房の中で寿命が尽きて死んだ」
「老衰……? 馬鹿な、私はまだ……」
「肉体年齢はね。でも、君の魂と生命力は、禁忌の研究と実験の代償ですっからかんだった。カインたちが来なくても、どのみち君は数日中に死んでいたんだよ」
ガリレオは絶句した。
賢者の石。不老不死。異界への到達。
その全てが、最初から手の届かない場所にあったのだ。
カインたちに邪魔されようがされまいが、彼には「時間」そのものが残されていなかった。
天才を自称しながら、自身の寿命計算さえ間違えていた滑稽さ。
「……ク、ハハッ……!」
ガリレオは乾いた笑いを漏らした。
完敗だ。力でも、知恵でも、そして運命にさえも負けた。
「……ならば、なぜ私と話している?」
ガリレオは最後に問うた。ただ消すだけなら、こんな対話は不要だろう。
「ただの暇つぶし」
案内人は笑った。
「君みたいに理屈っぽい魂は久しぶりだったからね。少し、お喋りがしたかっただけさ」
「……ふん。酔狂な管理者だ」
ガリレオの足元が崩れ始めた。
虚無が彼を飲み込もうとしている。
恐怖はない。あるのは、解けなかった数式への未練と、世界の理に触れた知的充足感だけ。
「……じゃあ、暇つぶしのお礼に、一つだけ『正解』を教えてあげよう」
消えゆくガリレオの耳元で、案内人が囁いた。
彼が解き明かせなかった、転生の最大の謎。
「転生者はね……『自分を必要としている誰かを救うために』転生してくるんだよ」
「……は?」
ガリレオが目を見開く。
「徳でも、運でも、ランダムな確率変動でもない。ただ、呼ぶ声があるから、応える。救うべき誰かがいる世界にだけ、魂は渡ることができる」
案内人は、遠くを見つめるように言った。
「あの娘も、あの剣士も。……そして、それ以外の転生者たちも。みんな、誰かの『祈り』に導かれて、時を超えたんだ」
ガリレオの思考が、高速で回転する。
誰かを救うため。
それが、転生の条件パラメーター。
ならば、自分にはその資格がなかった。誰からも呼ばれず、誰のことも救おうとしなかった自分には、渡るべき世界など最初から存在しなかったのだ。
「……感情論か。……ハ、ハハッ……!」
ガリレオは笑った。
虚無に飲まれながら、高らかに笑った。
「なんと……非論理的で、美しいシステムだ……!」
計算外。愛や祈りという名の変数。
それを理解できなかったことが、自分の敗因か。
天才の最期は、皮肉な哄笑と共に、永遠の闇へと溶けていった。
残された白い空間で、案内人は一人、呟いた。
「さて。……次はどんな物語が見られるかな」
彼は、地上で続く旅路を、楽しげに見下ろしていた。




