6話 小さな泥棒猫
宿場町リベの朝は早い。
窓の外から聞こえる荷馬車の車輪の音と、商人たちの怒号にも似た呼び込みの声で、カインは目を覚ました。
顔を洗い、髪を軽く整えて一階の酒場へ降りる。
そこには既に、コレットが座っていた。
「おはようございます、カインさん」
「ああ。調子はどうだ」
「もう平気です」
「そうか」
彼女の前には、宿代に含まれている朝食が並んでいる。固い黒パンと、豆のスープ。それに薄いエール。
しかし彼女はそれらに手をつけていない。
「先に食っていなかったのか?」
「一緒に食べた方が美味しいです!」
「そ、そうか……」
お世辞にも豪華とは言えない、労働者のための飯。
だが、それを口に運ぶコレットの仕草だけが、場違いなほど優雅だった。
背筋を伸ばし、音を立てずにスープを掬う。パンを千切る指先は洗練され、咀嚼する姿さえ絵画のようだ。
周囲の荒くれ者たちが、何事かとチラチラ視線を送っていることに、本人は気付いていない。
「……やんごとなき姫様だな」
カインは向かいの席に座りながら、呆れたように言った。コレットはきょとんとしてスプーンを止める。
「え? 何か変でしたか?」
「いや。ただ、そのボロ服と所作が致命的に合っていないだけだ」
「あ……」
コレットは顔を赤くし、少し背を丸めた。
記憶を失っても、体にしみついた習慣は消えない。
それは彼女が「高貴な身分」であったことの証明であり、同時に、今の境遇との残酷な対比でもあった。
「無理に直す必要はない。食ったら出るぞ。必要な物を揃える」
カインはパンをスープに浸し、乱雑に口へ放り込んだ。
◇
街へ出ると、喧騒はさらに増していた。
カインはコレットにフードを目深に被らせ、人混みを縫うように歩く。目的は保存食の補充と、情報の収集だ。
「まーた西の街道で盗賊が出たってよ」
「チッ。物騒になっちまったな。これも全部、あの『ヴァニタスの亡霊』どものせいだ」
露店の並ぶ通りで、男たちの話し声が耳に入った。
カインの足は止まらない。だが、その歩調のリズムが、ほんの僅かに狂ったのをコレットは感じた。
「十五年前に国を捨てて逃げた英雄様か。おかげでこの辺りの治安もガタガタだ」
「『三強』だか何だか知らねえが、力があるなら責任を果たせってんだよな。薄情な連中だぜ」
男たちは、吐き捨てるように笑った。
その言葉の意味を、コレットは知らない。
「ヴァニタス」も「三強」も、彼女には聞き覚えのない単語だ。ただの酔っ払いの愚痴だろう。
そう思って聞き流そうとした時、ふと隣を歩くカインの横顔が目に入った。
表情はない。怒りも、悲しみもない。
ただ、その瞳が、氷のように冷たく濁っていた。
まるで、ここではない遠い過去を見ているような、虚無の目。
「……カインさん?」
コレットが小声で呼ぶと、カインは瞬き一つして、いつもの無愛想な顔に戻った。
「なんだ」
「いえ……その、今、何か……」
「行くぞ」
カインはコレットの言葉を遮り、強引に歩き出した。
その背中はいつも通り大きく、頼もしい。けれど、コレットの胸には小さなしこりが残った。
(……やっぱり今……カインさん、一瞬……何だか……)
一瞬だけ見せた、痛々しいほどの無表情。あの噂話が、彼と何の関係があるのだろうか。
コレットが考え込もうとした、その時だった。
「――っと! ごめんねお兄さん!」
不意に、小さな影がカインの脇をすり抜けた。
橙色の髪をツインテールにした、小柄な少女だ。人混みに押されたのか、よろめいてカインとコレットの間に割って入ってきた。
「わわっ!?」
「へへ、ごめんごめん! 急いでてさ!」
少女は猫のように目を細めて笑うと、コレットの方を一瞬だけ見て、軽やかに駆け去っていった。
一瞬の出来事。
だが、カインの鋭敏な感覚は、少女の指先がコレットの胸元を掠めた違和感を見逃さなかった。
「……コレット」
「はい?」
「胸のあれ、あるか?」
カインの問いに、コレットは反射的に胸元を押さえた。
服の下にあるはずの、硬質な感触。
カインから貰ったばかりの、アズライトの栞。
「……ない」
コレットの顔から血の気が引いた。
「ない……! アズライトの栞が、ないです!?」
「だろうな」
カインは溜息を吐き、少女が消えた路地裏の方角を睨んだ。
「あの小娘。ただのドジを装っていたが、手並みはプロだな」
「か、感心してていいんですか!? ど、どうしましょう……!! カインさん、ごめんなさい、私……!」
「慌てるな」
カインは狼狽えるコレットの頭をポンと叩いた。
「泳がせる。あれには俺の魔力が篭っている。微弱だが追跡が可能だ」
「え……?」
カインの青灰色の瞳が、冷徹な狩人の光を帯びる。
ただのスリなら、捕まえて小突いて終わりだ。だが、あの少女からは妙な「視線」を感じた。
二人を値踏みするような、不愉快な視線だ。
「行くぞ。泥棒猫の尻尾を掴んでやる」
カインは人混みをかき分け、路地裏へと足を踏み入れた。
その背中には、先ほどまでの虚無感は消え、獲物を追う猛獣の静かな殺気が漂っていた。
そして、不敵な笑みも。
「カインさん……こ、怖いです……」
「悪ガキはこらしめてやらんとな」




